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「安保法案」成立で永遠に不可能になるかもしれない憲法9条改正

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
衆院本会議で可決した「安保法案」に拍手する安倍総理と石破氏(写真:ロイター/アフロ)

・「持っているが使えない」の異様さを梃子として

所謂「安保法案」が16日、衆議院を通過、参院に送られた。これにより同法案の成立は確実となった。国会の内外で喧々諤々の論争が巻き起こる中、私はこの採決の様子を万感迫る思いで見つめていた。安保法案の成立によって、日本の防衛力は着実に増強の方向にすすむだろう。2014年の集団的自衛権の憲法解釈変更と合わせて、私は一定程度、この安保法案の通過を評価する立場にある。

しかし一方で、これで憲法(9条)の改正は相当、遠ざかるだろう。いやもう永遠に無理かもしれない。そのような思いから、私は安保法案の通過を複雑な心境で見つめていた。

「我が国は国際法上、集団的自衛権を保有するが、その行使は許されない」との政府見解が出された鈴木善幸内閣の1981年以来、約30年に亘って続いてきたこの解釈は既に述べたとおり2014年に変更された。しかし、この「持っているが使えない」という集団的自衛権に関する珍妙な解釈は、この間、憲法改正を目指す保守派(以下改憲派)にとって、「憲法9条改正の理由」として必ず引き合いに出されるロジックであった。

「集団的自衛権は、国連憲章に書いてあるように、国家が生来持つ自然権である」という自然権説を改憲派は必ず引用し、「だのに、日本がそれを行使できないというのは、異常である」と現行憲法の「特殊性・異常性」を指摘し、「異常だからこそ、憲法9条を改正するべきなのだ」と長年主張してきた。

『日本人のための集団的自衛権入門』(新潮新書)の中で石破茂は、JRの座席指定券の例を出し、鈴木内閣以来の集団的自衛権解釈の「矛盾」を以下のように形容する。

あなたがJRの指定券を持って、指定された席に座っていたとします。その席に座るのは当然指定券を買ったあなたの権利であり、その権利の行使として実際そこに座っています。そこへ突然誰かがやってきて、「ここに座っているのはたしかに君の権利だが、しかし座ることは出来ないのだ。私に席を譲りなさい」と言われたとしたら、いったい何がなんだか分からなくなりはしないでしょうか。

出典:『日本人のための集団的自衛権入門』(新潮新書 石破茂著 P.71)

確かに、こう言われれば明確な理論展開だ。権利の保有は行使と普通イコールと考えられるのだから、「持っているのに使えません」というのは、常識的な皮膚感覚の中では、異様な解釈のように思える。この「異様性」を強調して、「だからこそ、(異様な)憲法9条を改正するべき」という改憲派の主張には、この間、一定の説得力があったように私には思える。

・盛り下がる改憲機運の理由

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図は、日経リサーチ社による、直近10余年における憲法改正に関する世論調査(各4月)の推移を筆者がまとめたものである(数値は全てパーセント)。これを見ても分かる通り、調査開始年の2004年(小泉内閣)時代、赤字で示した「改憲」と青字で示した「護憲」は、約2倍の開きがあって改憲派が相当優勢であった。実際には、調査方法や媒体にもよるが、概ね改憲を志向する世論は、1990年を過ぎてから一貫して護憲を上回るようになっている。

これは所謂、金だけを拠出してクウェートによる感謝状に日本の名前が載らなかった「湾岸戦争ショック」を始めとして、冷戦後の国際情勢の変化に際して世論が敏感に反応したことと、既に述べたように改憲派が現行憲法を「異様」なものであると訴え、現行憲法のままでは集団的自衛権の行使が不能であり、よって国際社会から日本が孤立化することを盛んに喧伝した効果が含まれていよう。

繰り返すように、先にあげた石破の「指定席の話」に代表されるロジックには、相応の説得力があったので、このような改憲の傾向はゼロ年代にあっても、上下はあるものの2014年の第二次安倍政権下でも強いものがあった。日経の調査によれば、最も改憲機運が高いのが2013年4月の調査であり、「尖閣諸島沖漁船衝突事件」(2010年)等に代表される「中国脅威論」などが影響していると思われる。

しかしこのような「改憲優勢」の機運は、図を見てもわかるように2015年の4月の最新調査で、僅差だがここ10数年で初めて護憲が改憲を上回った。他に各社世論調査の最新動向によると、「憲法改正不要48%、必要43%」(朝日新聞5月1日報)、「憲法改正賛成42%、反対41%」(読売新聞3月15日報)など、ここ十数年の「改憲優勢」の世論が、初めて逆転するか拮抗するかの情勢となっていることが明らかである。

つまりこの世論の動きは、「現行憲法が異様であるから、日本国憲法を改正するべきだ」という従来改憲派が繰り返して来た改憲のためのロジックが、昨今の集団的自衛権の解釈変更と、安保法案の成立により「解消された」と評価されているということだ。よりわかりやすく言えば、「現行憲法下で集団的自衛権が行使できるということになれば、わざわざ憲法を改正するまでもないのではないか」という、これまた普通の感覚で改憲派のロジックが弱体化してしまった結果なのである。

・「最良の時代」であり、「最悪の時代」でもある

これまで護憲派は、主に「現行憲法を変える必要はない。なぜなら、解釈改憲でこれまでも通用してきたからだ」と改憲派を牽制してきた。それに対して改憲派は、「解釈改憲では限界がある。例えば集団的自衛権があるではないか」と、反論してきた。今回、安保法案が成立したことで改憲派は集団的自衛権を担保とした改憲ロジックを事実上、封印されたことになる。憲法を変えないまま、集団的自衛権の解釈を変更し安保法制が成立したとなれば、「何のために憲法を変えるのか」という疑問に抗しきれない。

先に引用した石破は、「現行憲法下で集団的自衛権の解釈変更は可能だ(2014年2月)」と明言し、「集団的自衛権の行使の根拠は憲法ではなく、政策判断にすぎない」として、

(集団的自衛権の行使を)憲法にその根拠を求めてしまったこと自体が誤りではなかったのでしょうか。憲法9条のどこを読んでも、「集団的自衛権は行使できない」という理論的根拠を見出すことは出来ません。そもそも解釈が間違っている、いない、という論争ではなく、これは政策判断であったのだとすれば、何も憲法を改正しなくても行使は可能となるはずだ、と私は考えています。

出典:前掲書P.78、括弧内筆者

としている。確かに、石破の指摘通り政策判断にすぎないとなれば憲法改正の必要性はない。しかし、長年改憲派が依拠してきた憲法改正の重要な根拠は、「持っているのに行使できない」という政府の憲法解釈を日本国憲法の異様性に結びつけることで成り立っており、その部分が達成された(解消された)となると、いみじくも石破の指摘の通り「何も憲法を改正しなくとも…」という結論に達し、改憲機運は弱まるのは自然だ。

改憲派は憲法9条によって日本が手足を縛られ、冷戦後の国際環境下では日米同盟にヒビが入り、日本の存立をも危うくなることを盛んに喧伝して憲法改正を訴えてきた。今回の安保法制の通過(成立)によって、改憲派が唱えていた最大の理論的支柱が失われ、憲法改正の国民的機運は急速に衰えているのは既に示したとおりである。むろん、政府は集団的自衛権の解釈変更と安保法制の成立をもってしても、「憲法9条の縛り」があることを強調しているが、その理屈は相対的に弱まってしまうのは必然だ。

「戦後レジームからの脱却」を掲げ、その最大の争点を岸総理からの「憲法改正(自主憲法制定)」として捉えてきた安倍総理と改憲派にとって、今回の安保法制は実質的な意味では憲法改正に近いものであるが、名目的には却って、憲法改正が著しく遠ざかったことを意味する。

安倍総理は就任翌年、「96条の改正」(改憲要件緩和)を目指したが肝心の改憲派・保守層からも批判にさらされ、参議院選挙の争点とすることを断念した。思えばこの時に既に、安部総理は、名目上の憲法改正を断念していたのかもしれない。

「憲法9条改正」は、自民党にとって、保守派にとって、最大の悲願であり目標であった。それは現在も変わっていないものの、実質を取って名目を捨てた(ように思える)安倍政権は、「中国の脅威が増す中で、やむを得ない現実主義」と形容されるのか、はたまた「永遠に憲法改正の可能性を摘んでしまった」と形容されるのかは、後世の歴史家の評価に委ねられるだろう。

しかし私流に、現在という時代を観測すれば、それはディケンズの『二都物語』の言葉を借りて次のように評するよりほかない。

「それは(保守派にとって)最良の時代であり、また最悪の時代であり…」

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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