【富田林市】石川三十三所観音霊場九番札所の流れをくむ新道大師堂の仏像は、織田信長の焼き討ちから救出!
お伊勢参りに代表されるように、昔の人の娯楽、旅の目的は神社仏閣への参拝でした。富田林市の大多数を含む旧河内国石川郡でも、石川三十三所観音霊場というのがあって、三十三ヶ所の寺々を巡回できるようになっていました。
しかし、石川三十三所観音霊場は、すでに廃寺となっているところ、霊場会もなく霊場の御朱印なども行っておらず、事実上廃れたようです。
また現存する寺院の多くは現在の南河内郡(太子町、河南町、千早赤阪村)に点在しているのですが、一部は富田林市内にもあります。
今回紹介する新道大師堂も石川三十三所観音霊場九番札所(宝海寺)の流れをくむところでした。
場所は寺内町の東側で、寺内町から坂を下りたところ。石川に架かる金剛大橋の近くにあります。
ただ新道大師堂と聞いて最初「新堂の間違いでは」と思いました。富田林市の中心部から見て北部にあった新堂村は、かつての新堂廃寺や現在はPL病院などがあるところですね。
調べてみると新道大師堂で祀られていた仏像は、やはり旧新堂村の宝海寺にあったそうで、そこから移動されたものだとわかりました。ところがそれ以上に驚いたこととして、大師堂のある新道地区(現富田林町30-15)は、旧新堂村だったそうです。
大師堂があるところが寺内町のすぐ東側の坂を下りたところなので、旧毛人谷(えびたに)村とか旧富田林村とばかり思いこんでいましたが、改めて旧新堂村の範囲を確認すると、新道大師堂のあたりも旧新堂村の範囲だとわかりました。
とはいえ、もともと安置されている仏像は同じ新堂村の北町(現在の新堂小学校の近く)に存在していた真言宗の宝海寺に安置していました。そこに祀られていた不動明王像が現在の新道大師堂に祀られています。
中は非公開ですが、「正面の障子の隙間から中の様子が見られます」とのことだったので、覗いてみました。奥に4つの仏像が祀られているようで、そのなかのひとつに不動明王が祀られているようです。
不動明王像の歴史は古く、新堂村が成立する前の鎌倉時代に作られたものだそうで、新堂村の北側・里田(さった)の村にありました。
ところが織田信長が河内地域を攻撃した際、村は焼き討ちにあって焼けてしまいます。そのとき村人たちの手により、仏像の不動明王は救出されました。その影響で不動明王の肩の部分が焼けただれているそうです。
障子の隙間から見たので、不動明王のはっきりしたお姿は見えませんでしたが、なかなか興味深いエピソードですね。
仏像が祀られている手前は座敷のようになっていますが、これは地元の人の集会所だからです。大師堂の横にシャッターがあり、ここが集会所の入り口でした。
さて新道大師堂の歴史由来について詳しい説明版があります。これに従って新道大師堂の歴史を振り返ってみましょう。
もともと仏像が安置されていた宝海寺は、明治の初めに廃寺となりました。いったんは、寺と同じところに小さなお堂が建ちましたが、明治の終わりに同じ新堂村で現在の若松町3丁目にある浄土真宗の教蓮寺に移されました。
またもともとの宝海寺は、石川三十三所観音霊場九番札所ということもあり、本尊は観音菩薩像だったそうですが、廃寺の際に盗難に遭って行方知れずに。観音菩薩は無くなってしまいましたが、宝海寺に伝わる不動明王らの仏像は残りました。
その後、残った仏像は現在の大師堂に移されました、1933(昭和8)年に敷地料の永代寄付を受け、地元の人々が中心となって建立したとあるので、その頃に仏像がここに移され安置されたのでしょう。
その後新堂町大師講という組織ができあがり輪番で祭祀していたそうです。
その後1987(昭和62)年に建物の一部を増改修。平成時代に入ると堺市博物館や太子町立竹内街道歴史資料館にて仏像が展示されたこともあるそうです。
2017(平成29)年に大師講が再構築。2020(令和2)年になると敷地自体が地元の町内会に寄贈され、名実とともに新道町内会が所有管理しています。
ということで新道大師堂の由来と歴史を追いかけてみました。石川三十三所観音霊場としての本尊の観音菩薩像は行方不明になったものの、歴史ある不動明王像が健在で、地元の信仰により令和の現在も大切にされていることがよくわかりました。
新道大師堂から歩いてすぐに、石川に架かる金剛大橋に出ました。新道大師堂を調べたおかげで、意外にもこのあたりは旧新堂村だったことを知ると、歴史の奥深さを改めて感じます。
新道大師堂
住所:大阪府富田林市富田林町30-15
アクセス:近鉄富田林駅から徒歩10分
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