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【富田林市】「毛人谷」は南河内でもトップクラスの難解呼び名!何て読む?どんなところかも見てきました

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

南河内地域は難解な地名が多いと言われていますね。富田林市ですら、地方の人から見れば難解のようで、「とみたばやしし」などと呼んでしまうほど。

そんな難解地名でもトップクラスの常連にランクインする名前のひとつが、毛人谷(えびたに)なのではないでしょうか?読み方はもちろん、どういうところなのかも気になりましたので、実際に行ってみました。

旧毛人谷村で鎮座している五六七大明神(現:富田林市本町)
旧毛人谷村で鎮座している五六七大明神(現:富田林市本町)

毛人谷の名前の由来を調べると、古代の蝦夷(えみし)が住んでいたからとの説があります。7世紀以前、蝦夷は毛人(もうじん)と呼ばれていたので、毛人が住む谷という意味で付けた名前だったのでしょうか?

蝦夷は大和王権に従わなかった東国の人なので、その一部の人が何らかの理由で、大和の近く、南河内で住んでいたと考えられます。古代の富田林は朝鮮半島百済系の渡来人も住んでいたという話があるので、あながち不思議ではありませんね。

五六七大明神の奉納鳥居に残る毛人谷村方の文字
五六七大明神の奉納鳥居に残る毛人谷村方の文字

さて遠い印象のある毛人谷という地名ですが、意外にも富田林市の中心近くにあった地名です。寺内町のすぐ近くにある五六七大明神、もともと毛人谷にあったそうで、かつて南河内郡富田林町大字毛人谷425番地という地名でした。

過去を調べると、石川郡毛人谷村は1889年(明治22)年3月までは存在していました。4月に町村制の施行により、同じ石川郡にある富田林村(初代)と合併。改めて富田林村(2代目)が発足しました。

2代目富田林村は1896年に富田林町となった後、1942年に新堂村・喜志村・大伴村・川西村・錦郡村・彼方村と合併して改めて富田林町となってから、1942(昭和25)年に富田林市となっていったのは周知の事実。

でももし最初の合併時に、富田林村ではなく毛人谷村になっていたら、ひょとしたら毛人谷市になっていた可能性もあったわけですね。

では旧毛人谷村の範囲はどのあたりか調べてみると、富田林市の資料によると現在の本町、常盤町、寿町、昭和町、富美ケ丘(ふみがおか)町あたりと書いてありました。

寺内町の近く常磐町にある水利会館にも「毛人谷」の名前が残っています
寺内町の近く常磐町にある水利会館にも「毛人谷」の名前が残っています

それぞれの町を地図上で当てはめると上の図のようになりますが、寿町や昭和町など、かつての2代目富田林村の範囲よりも外側に広がっています。

ということで、まとめてみると、旧富田林村(富田林町)のうち、元毛人谷村だった範囲は、恐らく上の図で黒い線を描いたところの中だったのではと考えられます。(あくまでイメージです)

こうしてみると、寺内町の中心部分を除いて富田林駅から市役所のあたりまで大部分が旧毛人谷村だったという事実がわかります。そして五六七大明神もしっかりと旧毛人谷村に入っていますね。

毛人谷についていろいろ調べたところで、現在の富田林市毛人谷のあたりはどうなっているのか、実際に見てみることにしました。

現在の毛人谷は赤い枠で囲った中。空洞になっているのは飛び地のようで、地名が富田林市新堂となっていました。

ところが、毛人谷の地名が残るあたりで散策できる場所が非常に限られています。実はPL教団の敷地も毛人谷となっているところがあるようで、そこは入れそうにありません。

そのため、現在の毛人谷地区で散策できるのは、富田林市立西山墓地(西山浄苑)の周辺だけのようです。

ということで、まずは西山墓地の右側にあるため池(妙楽池)に向かいます。国道170号線(大阪外環状線)からは目の前のガソリンスタントから右側の道に入りました。

この道を上がっていけば妙楽池に行けます。

こちらが妙楽池で、すでに現在の富田林市毛人谷に入ったようです。

池の隣を見ると西山墓地が広がっています。

墓地に来るとよく見かける六地蔵ですね。

富田林市の情報によれば、この辺りはかつて毛人谷城跡遺跡と呼ばれる地域。7世紀当時もこの辺りは墓地だったそうです。富田林市のHPからの情報を一部引用します。

7世紀前半の古墳4基と、近世の火葬墓4基、城跡の溝が見つかりました。このお墓は、木棺を地面に直接置いて、その上に土を盛った木棺直葬(じきそう)とよばれる古墳です。

さて、墓地利用者のためのトイレと東屋が見えました。このあたりは、南北朝のころには毛人谷城が築かれていたとか。ネットの口コミなどを見ると楠木氏がらみのお城で、富田七郎の居城という説も指摘されています。

毛人谷城のことは富田林市でも存在が確認されており、次のような情報がありましたので、引用しましょう。

丘陵の斜面には濠状(ほりじょう)の溝がめぐり、丘陵の平坦面からは硯(すずり)や瓦片(かわらへん)、羽釜(はがま)が出土しています。

ここに城があったことなど、今ではまったくイメージがつかめませんね。でもここは確かに小高い丘の上にあります。見晴らしがよく、築城するのに最適な場所だったのでしょう。

東屋の隣は富田林モータースクールという自動車教習所になっています。現在の住所は毛人谷ではなく寿町。でも恐らく旧毛人谷村の範囲だったと考えられます。

また富田林市のHPからこの辺りの毛人谷について興味深い内容がありましたので引用します。

字(あざ)名が寺山や祖師山(そしやま)と呼ばれています。寺山は名前のとおり、寺院でもあったからでしょうか。祖師山の方は『河内名所図絵』にみられます。祖師というのは富田林寺内町(じないまち)の開祖である京都興正寺第14世証秀(しょうしゅう)上人をさしていて「毛人谷に寂(じゅく)し、そこに塚が造られた」とされています。

寺内町の隣に毛人谷があったことがうかがえるような、寺内町を作った祖師こと京都興正寺第14世証秀のエピソードです。

ということで毛人谷を歩いてみました。実質的には妙楽池と西山墓地の散策となりましたね。

今ではごく一部にその名前が残っている難解地名「毛人谷」が、かつては今の富田林市の中心部の多くを占めていたとか考えながら散策すると、より興味深さを感じました。

西山墓地(毛人谷城跡)
住所:大阪府富田林市毛人谷
アクセス:近鉄富田林西口駅から徒歩10分

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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