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【戦国武将】おぬし徳川に仕えぬか?敵対しても家康に誘われた軍神・立花宗茂!その尋常ならざる強さと精神

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

ときは1600年。天下分け目の関ケ原で勝敗が決すると、石田三成の率いる西軍は総崩れ。東軍の追撃に、戦場から逃げ惑いました。

そして戦場には居なかったものの家康に敵対した武将も、顔面蒼白となって今後の身の振り方を考えたのでした。

そのような中、西軍として九州から出陣し、大津で戦っていた立花宗茂(むねしげ)にも、この急報は届きます。

徳川方の城を落とし、その勢いでいよいよ家康を討つため三成と合流・・の予定でしたが、さすがに単独では抗しきれず。大阪城に引き上げ“もうひと合戦”するため、西に方向転換したのでした。

「いまに徳川の大軍が、押しよせて来るぞ!」

彼の兵は歴戦の猛者ぞろいでしたが、それでもこの状況では危機感あらわ。

途中、全軍が瀬田川の橋を渡り切ると、これを燃やして追手の足止めを画策。しかし、それを知った宗茂は言いました。

「お主ら、いったい何をしておるのだ?」

家臣「はっ!これより我ら、橋を落として時を稼ぎまする!!」

「なにをバカな!それでは後で江戸に攻め入るときに、不便であろう?」

家臣「えっ?そ、それは・・。はっ、仰せのままに!」

常人ではにわかに理解しがたいですが、これは強がりやヤケクソなどではなく、宗茂はいずれ本気で逆襲を考えていました。

かつて彼は、この時に匹敵する逆境を乗り越えており「なんの、まだまだ!」と動じず。徳川家康を押し返すどころか、討つにはどうするべきか?いくつも策を巡らせていたのでした。

“西国無双”の軍才

もともと立花宗茂は、九州の北東で勢力を誇った“大友家”という大名の一家臣です。

しかし同じく九州の覇権を目指す島津家に、大友家は決戦で大敗(宗茂は戦場に不在)

大友宗麟
大友宗麟

またたく間に形勢は島津勢に傾き、滅亡まっしぐらの大友家に、雪崩の如く押しよせます。

その勢いを一手に喰いとめた武将が、立花宗茂でした。5万とも言われる島津勢を、約3千の手勢で喰い止め(立花山城の戦い)、その間に事前に助けを求めていた、豊臣秀吉の手勢が到着。

主家は滅亡を免れたと同時に、秀吉は彼の武勇を褒め称え、もともと主従関係ではないにも関わらず、領地を進呈。

一国一城の主として実質的に大名格となったほか、のちに秀吉はこのような事を言いました。

「立花宗茂。これからはお主も“豊臣”姓を名乗っても良いぞ!」もちろん、これは特例の極みです。

勇猛で名高い島津勢を喰い止めた功績はもちろん、その前後も彼は大小様々な合戦で、“兵数など関係ない!”とばかりの武功を挙げており、“西国無双”という異名で呼ばれました。

その武勇は、猛将を多数かかえる天下人さえ、魅了したのでした。

ちなみに大友家にしろ、石田三成にしろ“それなら最初から立花宗茂に大軍をあずけて、指揮をさせれば最強だったのでは?”と思えてしまえますが・・

他の家臣とのバランス事情なども、あったことでしょう。

また本人もあまり「もっと兵を!」とは主張せず、置かれた状況で死力を尽くす性格でした。

とはいえ、もし彼が大抜擢されて大軍を率いたならば・・おそらく、歴史をぬり替えるほどの活躍をしても、不思議ではなかったでしょう。

戦国ファンとしては、思わずロマンを抱かずにはいられない武将です。

ゆるがぬ“義”の精神

この尋常ならざる軍才は、のちに徳川家康も惚れこんでいます。関ケ原の前にはいち早く、味方にならないかと、誘いの使者を出していました。

しかし、立花家の主君はかつて豊臣家によって救われており、その恩は忘れられずと拒否。

そして一たび西軍に組したならば、全身全霊で戦うのみと、合戦後も大阪城を拠点に反撃するつもりでした。

しかし肝心の総大将、毛利輝元はまったく戦意が無く、仕方なく手勢とともに九州へ引き上げたのです。

さて、その道中に立花軍は、同じく九州へ落ちのびる、島津軍を発見しました。

まだ余力いっぱいの立花勢に比べ、徳川の本軍とまっ向勝負した島津はボロボロ。

そんな様子を見て、宗茂の家臣は言いました。

「これは千載一遇!いま攻めかかれば、お父上の無念が晴らせますぞ!」

かつて宗茂の父は、島津軍の攻撃で戦死していました。

またお互いに徳川の敵同士なので、ここで襲っても家康の怒りを買うこともないでしょう。しかし・・。

宗茂「ただ落ちのびる相手を討ったとあらば、武士の名折れであろう!それに仮にも島津勢は、いまは味方同士ぞ」

このように言い、むしろ九州へ帰還するため、協力し合おうと申し出たのです。

私怨を捨て、その時々の役目をまっとうする精神。義を通す行動に、率いていた島津義弘は思いました。

「強さだけではない、立花宗茂こそ真のサムライでごわす!」

こうして両軍が領土への帰還を果たすと、宗茂の城には徳川方の武将が攻め寄せてきました。このとき、島津家はかつての恩を忘れず、宗茂へ援軍を派遣したと言います。(実際は島津軍の到着前に他大名の仲介で、戦いはストップ)

どうだ、徳川に仕える気はないか?

その後、宗茂は徳川家に牙をむいた罰として、すべての領地を没収。一国一城の主から、ただの浪人へ転落してしまいました。

とうぜん家臣は食べさせていけませんので離散、一文ナシの、その日暮らしです。

しかし、それでも宗茂を慕っていた何名かはともに従い、かつて武士であったプライドに拘らず、物乞いをしてでも、主君の暮らしを手助けしたのでした。

・・一方、関ヶ原合戦に大勝した家康ですが、まだ豊臣家は健在であり、後継ぎ候補の秀忠は才能がパッとせず、そのことを悩んでいました。

そこで思い出したのが、立花宗茂の存在です。ひとたび戦場に出れば百戦錬磨の無双ぶりを発揮し、主君には忠義を尽くす名将。

「あやつの軍才や生き様を、秀忠に学ばせたいものじゃ!」

このころ関ケ原から約4年の月日が経ち、ほとぼりも冷めてきたタイミングでもありました。家康は宗茂の居場所を調べさせ、使いを出します。

「どうじゃ、今度こそ徳川に仕え、その才能を発揮せぬか?」

宗茂は自身の境遇もありますが、付いてきてくれた家臣たちの生活を思いました。

「承知。お仕えするからには、全身全霊で励みまする!」

なお徳川家がまだ1地方の小勢力なら、人材に困って遠くに求めるのも分かります。しかし、このとき家康は天下人のほぼ1歩手前。

家臣や味方の大名にも、音に聞こえた猛将・智将が勢ぞろいで“大手”をかけている状態でした。

そんな中はるか遠方の九州、しかも敵対して追いやった存在を、わざわざスカウトしようと言うのですから、いかに唯一無二の存在であったかが分かります。

かくして5千石で徳川秀忠に仕える、旗本として取り立てられた宗茂。やがて秀忠の師であり軍事顧問といった立場となり、大阪の陣では敵将の動きを見破ったほか、自らも兵を率いて勝利に貢献します。

その功績が認められ、ついに宗茂は九州の旧領に、約11万石の所領を与えられました。

関ケ原の戦いから約20年後、領地を没収されながら復帰を果たした大名は、宗茂ただ1人でした。

その後、伊達政宗らとともに3代将軍・家光に戦国の経験を語り伝えたほか、江戸幕府の重要な行事に列席するなど、重用されました。

そして晩年には天草・島原の乱にも従軍。敵の動きを総大将に予言すると、それがピタリと的中し、その観察眼の鋭さに、居並ぶ諸将は舌を巻いたと伝わります。

人間としても一流だった立花宗茂

宗茂が浪人から大名に復帰したのち、彼はかつて離散した家臣たちを呼び寄せました。

さらには領地の広さから新たな人材も雇い入れると、屋敷が手狭に。これを機に増築の話が出ますが、宗茂は必要ないと告げました。

「広くなれば、家臣と顔を合わせる機会が減ってしまうではないか。皆とは苦楽をともにしてきたのだ、ワシはもっと語り合いたいぞ!」

戦場では鬼神の強さを発揮した一方、普段はこうした人間味あふれる性格も、彼が大勢に慕われた1つのように思います。

現在、歴史好き・・とくに九州の戦国時代ファンには、彼を大河ドラマの主役にと推す声も、根強く存在しています。

もし、いつかそれが実現したならば、ぜひ見てみたい大河の1つとなりそうです。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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