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15歳の難民孤児に刺殺された「天使」 スウェーデンを襲う悲劇

木村正人在英国際ジャーナリスト
スウェーデン移民庁のセンターの外で寝る難民(昨年11月)(写真:ロイター/アフロ)

被害者の家族はレバノン出身

アレクサンドル・マザハルさん
アレクサンドル・マザハルさん

スウェーデン西部ヨーテボリの難民滞在施設で25日午前8時ごろ(現地時間)、難民認定を申請していた15歳の少年が女性職員のアレクサンドル・マザハルさん(22)を刺殺した――として逮捕されたニュースが報じられました。警察は実名を発表しなかったようですが、英大衆紙デーリー・メールはマザハルさんを写真付きで実名報道しています。

同紙によると、マザハルさんの家族はレバノン出身のキリスト教徒で、身寄りのない14~17歳の難民が暮らす施設で2~3カ月前から働いていました。母親は地元紙に「彼女は私の娘というだけでなく、天使です」と語り、いとこもデーリー・メール紙に対し「マザハルさんは天使です。彼女は善い行いをすることを求め、良き人間になることを望んでいました。(難民を支援する)仕事をしていて殺されるとは本当に恐ろしいことです」「彼女は素敵で温かく、幸せな人でした。私たちは悲しんでいます」と話しています。

レバノンでは1970~80年代に激しい内戦が起き、12万~25万人が亡くなったと言われています。最近の調査では死者4万8049人という推定もありますが、現在のシリア内戦と同じように大量の難民が発生しました。レバノンにルーツを持つマザハルさんは内戦に追われた難民の気持ちに寄り添いたかったのかもしれません。

マザハルさんは大学の同級生と一緒に「ライフスタイルを変えることで犯罪ゼロを目指す道」という論文をまとめ、「ライフスタイルを変え、少年非行を阻止するために、人々と関わり、信頼関係を構築するソーシャルワークはとても大切だ」と結論付けています。難民滞在施設での仕事はその実践と見ることもでき、この仕事が終わると、大学院に進む計画だったそうです。

犯行の動機はまだ明らかになっていません。マザハルさんと逮捕された少年はおそらく言葉が通じなかったのでしょう。難民を支援しようとした何の罪もない若い女性が難民申請中の少年に刺殺された事件はスウェーデンだけでなく、欧州全体に大きなショックを与えています。悲しく、やり切れない事件です。冥福を祈りたいと思います。マザハルさんの写真はフェイスブックより引用しました。

スウェーデンの「難民孤児」昨年だけで3万5400人

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上のグラフはスウェーデン移民庁のホームページに掲載されている2015年の難民認定申請者の推移です。全体ではバルカン紛争時のピーク(1992年)の倍近い16万3千人がスウェーデンにやって来ました。シリア(5万1338人)、アフガニスタン(4万1564人)、イラク(2万857人)からの難民が大半です。身寄りのない未成年の「難民孤児」が3万5400人にものぼり、66%がアフガンからだそうです。

スウェーデンの警察庁長官は大量の難民流入やパリ同時多発テロの発生に伴って、テロ対策や難民施設の警備を強化するため4100人の増員を求めている最中に事件は起きました。

ドイツ西部ケルンでニューイヤーズ・イブ(大晦日の夜)に、560人以上の女性が大勢の男に取り囲まれ、股間や胸をまさぐられる性的暴行や窃盗など650件以上の被害にあう事件がありました。容疑者の半数以上がアルジェリアやモロッコなどの難民だったことから、欧州を2分する論争に発展しました。

スウェーデン最南部のマルメでも大晦日の夜にアフガンからの難民孤児が200~300人集まり、10代後半の女子が8~10人の若者に取り囲まれる事件が起きています。英紙デーリー・メールによると、この3週間の間に、ストックホルム最大のスイミングプールのお風呂や更衣室で18歳未満の少女が難民孤児とみられる男に性的暴行を受ける事件が4件も発生しているそうです。

駅でも物を盗られたり、集団で性的暴行を受けたりする被害も相次いでいます。

14年夏、ストックホルムに13~19歳の若者が5日間で17万人集まり、フェスティバルが開催されました。このとき警察は「いわゆる難民の若者、特にアフガン難民の若者がいた。性的暴行で数人のギャングが逮捕された」という報告書を作成していたのに公表されませんでした。スウェーデンに新しくやって来た17~20歳の難民孤児の犯行だとみられています。

この事件をきっかけにフェスティバルに参加する少女や若い女性にセクシャル・ハラスメントを受けた場合、直ちに報告し、犯人を特定するよう呼びかけました。15年夏のフェスティバルでは20件の被害が報告されましたが、事件の背景を明らかにする証拠は出てきませんでした。

ポリティカル・コレクトネスの落とし穴

ドイツではイスラム排斥を公然と唱える極右勢力が不気味な広がりを見せ、昨年、難民の施設を狙った放火などの犯罪行為が887件も起きています。一方、スウェーデンでは難民滞在施設での脅しや暴力事件が14年の148件から15年には倍以上の322件に増えています。昨年、難民滞在施設への放火が20数件もあり、全焼したり一部焼失したりしています。

イスラム系移民や難民の大半はホスト国へのリスペクトを忘れていません。集団性的暴行をニュースで大きく取り上げれば、難民排斥の口実に使われ、極右勢力の台頭を招くという自粛の心理が人権派ジャーナリストや政治家に働いたのは間違いありません。しかし事実は事実として報道しないと、適切な対策がとれません。マザハルさんは、現実を見ようとしない「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)」の犠牲になったとも言えるのではないでしょうか。

欧州に流入する大量の難民を受け入れるには、一国一国だけの対応では無理です。イスラム系移民や難民コミュニティーの協力も必要です。欧州連合(EU)全体としての取り組みが求められるのに、それぞれの国家のエゴイズムが優先し、なかなか足並みがそろいません。

寛容の国も国境管理を強化

1月4日からスウェーデン政府は、難民流入を制限する措置としてデンマークからの入国者にパスポートなど写真付き身分証明書(ID)のチェックを始めました。この半世紀をさかのぼっても、初めての措置だそうです。これを受けて、デンマークもドイツ国境で写真付きIDの検査を始めました。

人口100万人当たりの難民認定申請者数は14年時点で、スウェーデンが7981人と経済協力開発機構(OECD)加盟国の中では最も多くなっています。居住権や手当など難民政策が他の欧州諸国と比べても手厚く、大量の難民が寛容の国スウェーデンに向かっています。これまでに受け入れた難民を頼って、新たな難民もやって来ます。

19年以降、毎年700億スウェーデン・クローナ(約9600億円)が難民対策に必要になると言われていますが、これはスウェーデンの学校・大学・科学調査を合わせた年間予算と同じ規模です。国内の難民受け入れ施設は満杯になり、北極圏のスキーリゾートに送られた難民もいます。テントの施設で暮らす難民は北欧の寒さに身を震わせています。

新たに到着した難民は路上生活を余儀なくされ、市民団体からはストックホルムの王宮を開放してはどうかという声も上がっているそうです。

女性副首相の涙

昨年9月、スウェーデンのローベン首相は「私のヨーロッパは戦争から逃れてきた人々を受け入れる。私のヨーロッパは壁を築かない」と宣言しました。しかし予想をはるかに上回る難民流入に「このままでは対応できない」と悲鳴を上げて政策を転換しました。わずか2カ月後の11月に難民の受け入れ制限を発表せざるを得なくなったとき、連立政権に参加する緑の党のロムソン副首相は「とても悲しい決定だ」と涙を流しました。

スウェーデン政府は1週間にピーク時で1万人に達した難民の流入を1千人にまで抑制したいと考えています。欧州では人道主義と排外主義がせめぎ合っています。今回の事件で、イスラム系移民の排斥を唱える右派ポピュリスト政党・スウェーデン民主党が勢いづくのは避けられそうにありません。

(おわり)

参考:「閉ざされた『愛の橋』 寛容の国スウェーデンまで国境管理」(ニューズウィーク日本版オンライン)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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