多くの問題を抱えていてもWBCは必要だ、「侍ジャパンだけではないWBC」第9回
WBCには問題点が多い。だいぶマシになったとは言え、全てのスターが参加している訳ではない。開催時期に関しても議論の余地がある。球数制限や、タイブレーク、はたまた野球の本質に反する失点率での優劣の決定などの摩訶不思議なルールもある。
しかし、今回のここまでの展開を見る限り、はっきり言えることがある。野球に国際大会は必要だし、現時点ではこれがベストではないものの、WBCに変わるイベントはないということだ。
ここに列挙した問題点を孕んでいても今回のWBCが魅力的なのは、(我らが侍ジャパンが快進撃を見せたということだけではなく)一部のシニカルな批評家が「所詮、国際エキジビションゲーム大会」と揶揄しても、選手達、とりわけラテンアメリカ諸国出身者達は、われわれの想像以上に「自国を代表して戦う」ことにプライドと悦びを見出していることを再確認できたからだと思う。言い換えれば 、WBCは多くの選手にとってポストシーズン同様の真剣勝負の場なのだ。
おそらく、それは彼らの閉塞感の裏返しでもあるのだろう。今や、メジャーリーガーの約3割は外国生まれで、その多くはラティーノだ。そして、彼らのドミナントぶりは単なる全体の構成比の数値の域を超えている。実際、個人タイトルやスタッツ上位に占める彼らの比率は3割どころではない。
しかし、それでも彼らの多くは満たされぬものを感じているのだと思う。それは仕方ない側面もある。やはり舞台はアメリカで、観客のほとんどはアメリカ人だ。いくら活躍しても、決してアメリカ人選手とは対等に扱ってもらえないことを、いやというほど感じているはずだ(もっとも、その傾向は日本ほど露骨ではない。「日本生まれの横綱誕生」をあからさまに喜ばしいこととして報じるようなデリカシーに欠ける行為は、今なお人種問題を抱えるアメリカでは決して許されないからだ)。
そして、WBCは必要だ。昨年、「WBCは2017年限り」という噂が広まったことがあった。当初目論んでいた水準ほどの利益が上がっていないことが、その理由に挙げられていた。それ自体は事実だろうし、赤字を垂れ流し続けてもOKということはないはずだ。しかし、それだけで国際大会を論じることはできない。そもそもの存在意義として、この素晴らしい競技の世界的な普及という、極めて崇高でしかも時間の掛かる大義名分があったはずだ。
MLBにとって、国際戦略は極めて重要だ。彼らの考える国際化とは、海外市場にTシャツやキャップなどのマーチャンダイジング商品やテレビ放映権を売り、有望な選手を獲得することだ。しかし、そのためにシーズンを中断しスター選手を五輪に送り込むことに、彼らは価値を見出さなかった。五輪への積極参加は、ロンドンやリオで選手のネーム入りジャージを拡販することには寄与するかもしれないが、それ以上に外国生まれの選手を多数獲得することの方が、その国の市場を開拓することには寄与することを学んだからだと思う(その好例が、イチローや松井秀喜を輩出した日本市場だ)。
しかし、世界中の国々から第二、第三のイチローを容易に獲得できる訳ではない。日本からイチローというタレントが生まれたのも、日本に根付く野球文化や野球人気が根底にあり、高校野球からNPBまでの極めて堅固な野球ヒエラルキーがあってこそだ。やはり、MLBが長期的な視野で市場の開拓と有望選手の発掘を続けるにはベースボールの世界的な普及が前提で、そのためには国際大会は不可避であることは明らかだ。
今回のWBCは(まだ終わってはいないが)、そのことを再認識させてくれた。この原稿はLAに向かう機内で書いている。到着したら、そのままドジャー・スタジアムに向かい、プエルトリコ対オランダのセミファイナル第1試合を観戦する。プエルトリコは、ドミニカ、ベネズエラを含めたラテンアメリカ野球3強の中で、戦力的にはもっとも劣っていたと思うが、勝利への執念やヤディヤー・モリーナを中心とする結束力はピカイチだったと思う。ぼくは、今でも4年前のサンフランシスコで見届けた、侍ジャパンを下した瞬間のプエルトリコチームのあたかもワールドシリーズを制したかのような欣喜雀躍ぶりが忘れられない。また、極寒のソウルでのジュリクソン・プロファーやザンダー・ボガーツのレギュラー・シーズンもかくやと思わせるハッスルプレーも目に焼き付いている。やはり、ある程度のレベル以上になると、一番勝ちたいと思っているチームが最強のチームなのだ。今から胸が踊っている。