奨学金というリスク 中嶋よしふみさんの批判にこたえて
中嶋よしふみさんというファイナンシャルプランナーに、奨学金を批判する教授が大学を辞めるべき理由。という記事で、「大学教授を辞めろ」と言われた。ご本人が私が大学教授を辞めない理由 奨学金制度を批判する自由と義務という記事に、「何を言いたいのか、どこを批判してるのか前々理解出来ない(笑)」(ママ)とつぶやかれて、困惑されているようである。ごめんなさい。であるなら、さっさと反論しておく。トンチンカンな論理にいちいち反論するのも面倒だったし、そういう行為は下品かと思って躊躇していたのだが、よく考えれば、そもそも売られた喧嘩なのだから、遠慮することはないと思い直した。
■奨学金は大学を支えている。で? それが?
中嶋さんには、社会構造とか社会制度、社会システムという考え方はどうもないらしい。
私は日本で、多くの学生が奨学金を借りなければ、大学に行けない現状を憂いている。ヨーロッパの多くの国では、授業料がほぼ無料である。そうでない国では給付の奨学金がある。高等教育は社会の平等と結び付けられて考えられており、中嶋さんが絶賛している日本学生支援機構の理事長のインタビューのタイトルにある「努力次第で上に行ける平等社会」に対する一応の合意がある。
ところが残念ながら、「『日本は』努力次第で上に行ける平等社会だ」という理事長インタビューのタイトルのほうには、とても賛同できない。他ならぬ中嶋さん自身が「大学進学者の2.6人に1人、金額で言えば毎年1兆円以上の奨学金が貸し出されている」と指摘されているように、多くの学生が奨学金を借りなければ大学に進学できないというシステムが出来あがっているからである。それは公費が大学に投入される比率が著しく低いことと関係がある。国立大学の授業料もうなぎ登りにあがっており、文部科学省は学費を私立大学並みにする試案を出している。どうも今回は本気らしい。
大学授業料における公費負担の比率が著しく低いのは、韓国と日本とアメリカである。OECD諸国の平均は、72.6パーセントであるというのに、日本の公費負担は32.2パーセントにすぎない、というのは、以前に大学というブラックビジネス 人生のスタートから借金漬けになる学生たちに書いたとおりだ。こうした状況は「政策的に」作られている。社会制度は変更可能である。現状を批判することには意味があり、「現状では奨学金は大学を支えているんだから」といわれても、「で? それが?」としかいいようがない。
日本学生支援機構の第二種奨学金の金利は、いちおう上限3パーセントである。中嶋さんは、私の勤務先のホームページで、それよりもずっと条件が悪い「政策金融公庫やオリコ・ジャックスなど、明らかに機構より返済条件が悪いものも紹介されている」ことをもって、「大学自身が借金の案内をしている事をどう考えているのか」と批判される。何度もいうようだが、そういう事態を憂いているのである。ついでにいえば、政府金融公庫やジャックス、オリコは「教育ローン」であるが、奨学金と同列に並べて語っているあたり、中嶋さん自身が、奨学金はローンと同じであるときちんと理解されているのではないか。のちに「借金を奨学金と呼ぶことはおかしい」という批判に対する日本学生支援機構の理事長による反論の言葉を引用していらっしゃるけれども(大学のホームページでは、奨学金と教育ローンを、いちおう峻別してある)。
日本学生支援機構の金利は実際には3パーセントまではいかないといっても、ほかの「奨学金」の金利には、例えば5パーセントというものがある(教育ローン金利援助奨学金)。3パーセントどころではない利率である。もちろん、だからといって、「日本学生支援機構の奨学金は素晴らしい」という結論にはならないが。
中嶋さんは、なんでそこまで日本学生支援機構の奨学金を誉めそやすのだろう。『日本の奨学金はこれでいいのか!-奨学金という名の貧困ビジネス』(奨学金問題対策全国会議編。あけび書房)を読めば、奨学金の恐ろしさは、まさに延滞にある。ネットでも同様の事例は溢れている。中嶋さんは、奨学金の取り立てを強化すべき理由。で、日本学生支援機構の奨学金を、
と書かれているが、私にはとてもそうは思えなかった。
日本学生支援機構は2010年に「債権管理部」を設置し、回収を強化している。延滞が3か月に達すると、延滞者の情報は個人信用情報機関(全国銀行個人信用情報センター)に登録され、5年間はローンやクレジットカードの審査に通らなくなる可能性が高くなる。4か月に達すると延滞債権の回収を債権回収専門会社に委託、9か月になると裁判所に「支払い督促」を申し立てられ、その後は差し押さえや提訴が始まるのである。延滞すると延滞金の金利は10パーセント(現在は、批判を受けて5パーセントに改められた)。猶予期間は1回きりで、5年のみ(10年に改められた)。
2004年以降、回収金はまず延滞金、そして利息に充当されている。2010年の利息収入は232億円、延滞金収入は37億円であり、なによりもこれらの金は、経常収益に計上され、原資とは無関係の(!)、銀行や債権回収専門会社にもいっているのである。そして、一度滞納すると、滞納金、利息、元金の順に減っていくため、元金はなかなか減らない。これは酷い。
中嶋さんは、私が大学の現状を憂いたうえで、「勤務校の名誉のために言っておけば、自分がかつて受けてきていないほどのきめ細やかな指導がなされているし、授業料以上の教育がなされていることは自負している」と書いたことに関して、「他の大学に対して極めて失礼かつムチャクチャな論を展開している」というが、その論理自体がまったく理解できない。勤務校の教育体制に瑕疵がないことを断ると、どうして他の大学に対して失礼なのだろうか。繰り返すが、私が問題にしているのは大学をめぐる「システム」の問題である。うちの大学だけがOKでほかの大学は全部ダメ、などと言っているわけですらない。どうしたら、このような読解が可能なのか。
■進学率50%は奨学金が支えている。それで?
文部科学省自体が、「日本の大学進学率はOECD各国平均に比べると高いとは言えない」といっている。
大学進学率は、オーストラリアが96パーセント、ポルトガルが89パーセント、アメリカが74パーセント、韓国が71パーセント、日本が51パーセントである。中嶋さんは、この進学率を高い、というより、高すぎると評価されていらっしゃるようである。もしも進学率をあげたいのであったら、奨学金や授業料をめぐる制度を変革が必要なのは自明であるが、日本の大学進学率を下げたいと考えていらっしゃるのだったら、確かに現状のままでも構わないのかもしれない。
中嶋さんの認識には、ため息の出る思いだ。私の学生時代には、「無利子で借りられる奨学金を高額な利率の定期預金にぶち込んで、利息分を稼ぐんだ」という不届き者は確かにいた。しかし現在は、そもそも「取り崩す」貯金すらない世帯が増加していることを、ファイナンシャルプランナーならご存じない訳ではあるまい。無貯蓄世帯は3割を超えていたのではなかったのか。無利息で借りても、先述べたように延滞金が付くことを考えれば、奨学金にはリスクがある。多くの学生は、「奨学金を借りなければ進学できないから」という理由で、奨学金を利用して大学に来ているのである。少なくとも私の知り得る限りでは。
■利息が無ければ、学費が無料なら問題は無いのか? ってそんな短絡的なことはいいません。
ええその通り。そんな短絡的なことは言ってはいません。利息がなくても高額な奨学金を利用しなければ進学できない社会は問題だと考えている。学費は公費で賄うほうが望ましいとは思っている。問題は、望ましい社会制度の設計である。
お前が給料もらっているのは、奨学金で学生が大学進学するからだろう。批判するなら辞めろという主張に関しては、反論をすでに書いたので、繰り返さない(残念ながら、ご理解いただけなかったようであるが)。
■国は大学に税金をつぎ込むべきか?って、日本の高等教育の公支出は、OECD諸国で最低レベルなのをご存知ですか?
教育は階層の問題、不平等の問題と切り離せない。ところが中嶋さんのいう「価値」とは何か。現在の大学進学率が50%を超えた結果、「日本は経済成長したのかと言えば、ずっと停滞を続けている。もちろんこれは様々な要因があるが、少なくとも大学教育が経済成長に確実に資すると言える状況ではない」という文章から見ると、どうも経済成長のことを指すようだ。がっかりする。社会的には教育は、社会的公平であり、正義の問題である。個人には学びの機会の問題である。
成果主義や能力主義がここ数10年の流行であるが、もしも能力主義を貫徹したい(できる)と仮定するならば、すべてのひとに等しい教育機会を与えることが前提となるだろう。それが業績主義(メリトクラシー)というものではないか。競争をうたうのであったら、せめて公平な教育機会が必要である。
中嶋さんは、大学教育が経済成長に資していない原因を、低学力の学生の入学に求めていらっしゃるようだ。
直前に「大学に通う意味についても、以前be動詞を教える低レベルな授業をしていると批判を受けた大学があった。しかしその大学の学長は『今の大学には中学レベルからやり直さないといけない学生が入学してきている、そのようなリメディアルと呼ばれる授業は公開されていないだけで難関校を含めたほとんどの大学で行われている』と批判に答えた」と書いていらっしゃるところから、難関校でも「レベルの低い学生」ばかりが入学しているのではと、推定されているのではないか。しかし難関校でリメディアルをするとしても、専門にかかわる部分の中等教育に関してのおさらいをしている程度のことだろう。これはゆとり教育によるカリキュラムの削減、大学入試の科目数の減少などから起こっていることであって、個々の学生に責任を負わせるのは、気の毒である。
何よりもbe動詞もわからない学生が、大学で学び直す機会を得たとしたら、それはそれで評価されるべきことなのではないか。教育を中嶋さんのような視点で語ることに、寒々とした思いしか抱けないので、また別途論じることにしたい。うんざりする。
■高卒では就職できない?って、1990年代に労働市場の変化が確実にありました。
中嶋さんは私が、高卒できちんと職がある時代が終わったと指摘したことに対して、「ついでのように高卒を見下すような書き方は、事実誤認の上に学歴差別としか言いようが無い酷い認識だ」と批判する。その根拠は、
ということであるらしい。眩暈がする。ひょっとして、そこらへんにある数字を切ったり貼ったりすることで、社会問題を語りつくせると思っていらっしゃるんでしょうか? 「トンチンカンな批判する前にまずは正確なデータを把握すべきだ」という言葉は、そのまま中嶋さんにお返ししたい。
1990年代に労働市場のありかたは、確かに変わった。日本社会では、学校を経由して就職が行われてきた。これは国際的にみても、顕著な特徴である。教育社会学においては、高卒の就職の研究の蓄積がある。高校と企業のあいだで就職のルートが確保されており、推薦指定校制と一人一社制によって支えられてきた。学業を真面目にコツコツとやれば、高校が就職を斡旋してくれる制度が存在したのである。高卒であっても、就職はほぼ保障されていたのである。
ところがグローバリゼーションの波と、日本型経営の終焉によって、こうした結びつきは崩壊した。高卒に仕事がない訳ではない。しかしもはや高卒に来る求人は、「現業」が多い。ホワイトカラーを望む学生たちの選好とはずれ、マッチングが上手くいかなくなった。その結果、高卒で就職できなかった学生が、仕方なく大学に入学するような事態すら起こっている。見かけの数字は、どのような就職であるかは何も語らない。社会システムをみなければ、こういった事態は把握できないだろう(これは別に私のオリジナルな意見でもなんでもなく、教育社会学の議論をまとめただけである)。
こうした1990年代における日本社会の変化と、奨学金の問題は、密接にリンクしている。終身雇用や年功序列、そして実際には新卒一括採用が行われる日本型経営では、いったん就職すれば、そのまま雇用され続けるだろうという見通しが立てられた。大学に行けば就職できるだろうという希望がもてた。ところが、山田昌弘さんが『希望格差社会』で「パイプラインの漏れ」と表現したように、教育や職業の接続はうまくいく保障がなくなったのである。
私たちの同級生の口からは、父親が苦学しながら大学を卒業し、その後コツコツと奨学金を返したというエピソードを何度もきいたことがある。しかしそれは社会問題とはならなかった。以前は大学を卒業したら、就職があり、そしてそのまま雇用され続けられるだろうという見通しが立てられたからである。
しかしもはや、就職も「運」であれば、そのまま働き続けられる見通しも定かではない。非正規雇用化とリストラが、あたり前になってきたからである。自分が正社員の職を見つけられるか、見つけられたとしても十分な給料がもらえるかどうかは、そしてクビにならないかはまったくわからない。しかし大学の学位をもっていなければ、雇用をめぐる競争にすら参加できないように思わされ、多額の奨学金を背負ったうえで、学生たちは勝負に出るのである。
教育はあくまで個人の損得の問題にすぎないのであって、公共的な色彩は帯びないのか。大学教育は、生涯賃金のためだけに必要であり、教育はなんら社会的な意味合いをもたないのか。中嶋さんにとって、「公益」と「個人の利益」とはどのようにわけられるのだろう。繰り返すが、このような土俵でしか教育が語られないことに、残念な気持ちになる。教育に経済的側面があるのは、事実である。しかしせめて社会的正義の観点からも、考えてみてはくれないだろうか。
■奨学金批判は辞めて建設的な議論を。 って、後半部分は大賛成!
建設的な議論には、賛成である。しかしまず、現在の日本社会で奨学金がもっている問題性を検討したうえで、始まるものだろう。奨学金批判をするなというのであれば、それより先の話はなにもできないと思われる。こんな大きな前提を押し付けらても、とても首を縦に振ることはできない。
長々とお付き合い、ありがとうございました。
【追記】
コメントを見て。確かに私の記事だけでは、奨学金の延滞料の問題がわかりにくいかもしれませんね。調べていて恐ろしくなり、あまりにも自明になりすぎました。中嶋さん自身も、「確かに奨学金の返済で困っている人は多数存在し、返還請求の訴訟は6000件を超えているという」とは認めています。「しかし多額の奨学金の裏には、親の収入減少、教育費に投入される税金が少ないという問題、就職後の収入の低さなど、様々な原因がある」とあっさりと切って捨てますが、訴訟が6000件というのは異常な数字のように思います。探せばたくさん出てくると思いますが、例えば返せない若者、急増中…奨学金訴訟が8年で100倍にのNever まとめなどでもそれはうかがえるのではないでしょうか。
日本学生支援機構自身の平成 25 年度奨学金の延滞者に関する属性調査によれば、
返還しているひともいないひとも、多くが年収300万円以下で頑張っており、年収300万円以下でもなんとか200万円あれば返せる、という状態が見て取れて、大変そうです。年収300万~400万円を超えれば、ほぼ延滞はなくなりますね。
中嶋さんがいうように、経済的に困窮していても奨学金があるからかろうじて、大学に行けているひとがたくさんいるのが現状です。であるから、「大学教授は文句をいうな」というのか、「もっとよりよい社会制度を作っていこうか」と考えるのか、その差は大きなものであると思われます(2016年2月18日)。