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ジェンダー肯定医療のスキャンダルに投じられた一石 KADOKAWAの出版停止が隠した問題

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
(写真:アフロ)

KADOKAWAから発売予定だった『あの子もトランスジェンダーになった―SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(アビゲイル・シュライアー著、岩波明監訳)の発売停止になった。この本の邦題がよくなかったという意見があるが(KADOKAWAもそう謝罪している)、原題は『Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing Our Daughters』、つまり『取り返しのつかない損傷-娘たちを誘惑するトランスジェンダーの狂乱(的流行)』である。ジェンダー肯定医療を「取り返しがつかない」と呼び、「誘惑」「狂乱」という単語を副題に入れた原題よりは、ひとびとの抵抗を和らげようとして考えられた邦題だろうと思うと、何が正解だったのかは、そう簡単には決着はつかないように思う(原題を正確に訳して発売したとしてもirreversible、damage、seduce、crazeというすべての単語に抗議がわき起こっただろうと予測する)。

問題は、この本がジェンダー肯定医療のありかたに一石を投じているという事実であり、ジェンダー肯定医療のありかたは、早晩日本でも問題になっていくと思われる。

2020年にはイギリスで10代から女性から男性に性別移行をはじめ、その後女性に「戻った(デトランス)」キーラ・ベルが、タヴィストッククリニックと、ポートマン国民保険サービス基金トラストを訴えて、大きな騒ぎになった。キーラは性別違和を訴えていたが、自分に対して簡単にジェンダー肯定医療を施すべきではなかったと主張している。性別違和を訴える当事者には、まず「間違った身体に生まれてきた」ことを認め、新しい性別の選択を肯定する。そして思春期ブロッカー(第二次性徴を遅らせるといわれている)、異性ホルモン(キーラの場合はテストステロン)、胸の切除、というジェンダー肯定医療を進んでいくのが普通である。キーラはそのプロセスが安易であったことに、異議を申し立てているのである。

まずは思春期ブロッカーを投与してみようといわれるが、ほとんどのケースでそのまま異性ホルモンへと進んでいく。思春期ブロッカーは「可逆的」で比較的安全だといわれていたが、キーラの場合は更年期のような症状がでて、頭がぼーっとしていた、と証言している。そのほかに、骨粗鬆症や肝臓損傷、精神衛生上の問題などの多くの副作用もわかってきた。また性器がじゅうぶんに発達しないため、男性から女性への性別適合手術をおこなうときに、術式によっては不都合がでることもある。

私は医師ではない。思春期ブロッカーが「可逆的」であるのか「不可逆的」であるか、どちらが正しいかは「専門家として」は判断できない。日本精神神経学会による「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン(第4版改)」(6年前に最後の改定がされている)では、「この治療は可逆的であり、治療の中止で二次性徴の進行は再開する」と書いてある。

このような現状で、多くの体験談がわけもたれることは重要であると私は考えている。キーラのあとには多くの訴訟が続いている。性別違和を訴える子どもたちのなかには、発達障害を含めて多くの精神上の問題を抱えているケースが多いことも、タヴィストックがこれらの事実に注意を払わず積極的には公開してこなかったことなども判明した。こうした医療スキャンダルを受けて、タヴィストッククリニックは閉鎖が決定している。

今年アメリカで話題になったのは、議会でも証言した、カリフォルニア在住のクロエ・コールだろう。彼女は生理と胸が嫌で12歳で性別違和を訴え、13歳で思春期ブロッカー、そしてテストステロンを投与され、15歳で胸の手術をおこなっている。思春期ブロッカーを摂取したことによって、更年期の症状、そして背骨や関節の骨の痛みに悩まされたという。

母親は「そんなこと(ホルモン投与)をしても幸せになれない。大人になるまで待ったらどうか」と考えていたが、医師には「あなたは、死んだ娘とトランスジェンダーの息子のどちらがいい?(よく聞かれる定番のフレーズである)」といわれている。そういわれたら、親は何もいえまい。

医師によれば、すべての問題は性別移行を終えたら解決するはずであったが、彼女はむしろ自分は女性だという確信だけが強まっていった。そして「あなた死んだ娘とトランスジェンダーの息子のどちらがいい?」と医師が発言した際にはなかった自殺願望を、むしろジェンダー肯定医療の開始後にもつようになる。

もちろん、こうしたケースばかりではないだろう。ジェンダー肯定医療によって、幸せになったという子どもたちもいるに違いない。しかしひとりひとりの人間も悩みも人生も多様であるように、ジェンダー肯定医療に救われる子どもばかりではないのだ。そうでないケースに耳を傾けることは、いけないことだろうか。むしろ性別違和に悩む子どもやその家族こそ、いろいろなケースについて知る必要があるのではないか。

彼らは、将来に子どもをもつかどうかも現実の問題として考える前に、そして性経験もなく、自分にとって性的な快楽を犠牲にしてまで性別移行をすべきかどうかについて、具体的に考えることもなく、性別移行に足を踏み入れてしまっている。クロエの言葉を借りれば、「法的に車を運転できる前に」、女性としての将来の大部分を奪われてしまったのである。

彼らが求めていることは、実はシンプルである。彼らは孤独で、混乱していて、話を聞いて欲しかったのだ。早急なジェンダー肯定医療ではなく、セラピーが欲しかったといっている(しかしジェンダー肯定医療ではなく、セラピーを施すことは、「転向療法」とみなされる傾向があり、実際にはそう簡単ではなくなってしまっている)。彼らが欲しかったのは共感であり、愛情であった。そして身体が変化し、精神的にも嵐のような思春期を、なんとかやり過ごすためにアドバイスができる先達だっただろう。生理や胸の変化が大好きだったという女性に、私はいまだ会ったことがない。

こうしたジェンダー肯定医療は、日本にも入ってきている。生理への違和感を表明したことによって、ジェンダー肯定医療がはじめられた例も聞いている。また胸や生理が嫌だという女子にとって、思春期ブロッカーは小学生からも投与できるというジェンダー肯定医療を紹介するテレビ番組も、10月に放送されたばかりのようだ。

繰り返すが多くの情報や選択肢が与えられ、本人が納得して「治療」を受けることは重要なことである。そのためにも、翻訳は必要だったのではないかと思っている。「そのような翻訳を出版すれば、トランスジェンダー当事者が自殺する」と脅すのではなく、大人としてこうした課題にどのようにかかわることができるのかを、一緒に考えていく必要があると考えている。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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