KADOKAWAの刊行中止事件から、私たちが学ぶべきもの
KADOKAWAの翻訳本、『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』の出版停止騒動であるが、SNS上ではまだまだ刊行を批判する声が続いている。前にもKADOKAWAの刊行中止と表現の自由-私たちはどのような社会に向かうのかで述べたが、この騒動は著者を含む出版関係者が、本の刊行停止に大きな役割を果たしてきた。なかには「これは『表現の自由』の問題などではない。内容は読んではいないが『ヘイト本』であるようだ。そういう本が刊行されなくてよかった」という意見を表明しているひともいる。
「読んではいないが」「ヘイト本」という言葉の組み合わせに驚きを隠せないが、間違いなくこれは「表現の自由」の問題である。KADOKAWAが「自主的に」刊行中止を決めたとはとても言えまい。なぜなら、本に関連したX(旧Twitter)へのポストや、KADOKAWAにもらったコメントにつけた「いいね」を削除するとまで言っているからだ。活動家の意に沿わない投稿に「いいね」をつけること、もちろんリポストすること、そしてフォローすることは、それぞれ、いいね罪、リツイート(リポスト)罪、フォロー罪と呼ばれており、活動家に反省するように詰められる、ヘイターとしての「大罪」なのである。明らかになんらかの圧力があったと考えるほうが自然だろう。
刊行中止を叫んだひとは、こうした「圧力」は国家や公権力からのものではないからいいのだ、というロジックで納得しているようであり、むしろ自分たちは善行を積んだと思っているのかもしれない。
今回の騒動は「トランスジェンダー」「LGBT」をめぐってであった。しかし本を刊行しないようにというこうした動きが、それ以外の書籍にも、そしていつの間にか出版停止をもとめたひとの著作にも、さらに公権力によってなされるようにと、波及していくことを想定してはいけないのだろうか。本来なら「自分は関係ない」と言えるひとは、本来誰一人いないはずである。
編集者が本に対してこうしたリアクションがくることを事前に想定して、幾人かのひとに事前に原稿を送ったことを、「ステマ」であると騒いでいるひとがいたのにも驚いた。なにも金品をもらい、効用をおおげさに宣伝して、コスメを買わせようとしているのではないのだ。献本は普通に行われている慣行であるし(内容が気に入らなければ、言及しなければいいだけの話であるし、批判する自由もある)、同様に映画の試写会もステマだから不当だというのだろうか。あまりに「批判のための批判」であるように感じられるし、これを批判するひとたちが「好ましい」と感じる著作には、このようなことはおそらく言わないだろう。
また多くのひとが実際には読んでもいない本の翻訳の刊行が中止されたのだが、「英語で読めばいいじゃないか」という意見があった(実際、Amazonの洋書のランキングの上位をアビゲイル・シュライアーによるこの本が占めている)。日本語で刊行したら「傷ついて自殺するひとがでる」とまでいう本を、英語で読むぶんには構わないというのも、不思議な理屈である。たんに多くのひとに読まれたくない、ということだろうか。
ただネトウヨの嫌韓を真似して、「韓」の代わりに「KADOKAWA」をゴミ箱にいれるロゴを作り、「ヘイト本でメシを喰うな 活字で人を殺すな」というフレーズと共に、「至急企画を潰すべき」だと主張していた日本共産党世田谷青年支部が、謝罪して当該ポストを削除したことは、さすがにホッとした。右も左も、行為だけみたら同じだというのは、さすがにどうかと思った。
アメリカのワシントンD.C.のホロコースト博物館で、ナチスによる焚書の記録を見たことがある。闇夜に本に火が放たれ、大きな炎と共に燃えていくシーンは、誤解を恐れずに言えば、とても美しかった。きっとアーリア人の優越性を信じ、純粋なドイツの文化を守ろうと考えたひとたちには、もっと美しく映っただろう。自分の意に沿わない意見、とくに間違っていると信じている意見がこの世から消え、自分の「正しさ」を確信する行為は、ときにひとを魅了する。それは理解できる。しかし、ひとは間違うのだ。すべてのひとが、間違い得る。だからこそ自説の正しさを証明するには、まさに言説によって、対抗的な言説を丁寧に批判していくことによってなされるしかないのである。冷静になって、議論によって合意を作り上げる社会を望みたい。