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KADOKAWAの刊行中止と表現の自由-私たちはどのような社会に向かうのか

千田有紀武蔵大学社会学部教授(社会学)
(写真:アフロ)

KADOKAWAから発売予定だった「あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇」(アビゲイル・シュライアー著、岩波明監訳、村山美雪・高橋知子・寺尾まち子共訳)が発売停止になった。講演会などが抗議活動で中止になることは今まであったが、本が発刊停止になるという事態は、前代未聞ではないだろうか。しかもこの本は、『エコノミスト』誌の2020年の「その年の本」、2021年の『ザ・タイム』紙と『サンデータイムス』紙のベスト本に選ばれ10カ国もの国で翻訳されている話題の本であった。

発売が宣伝されると同時に、Amazonでの「ジェンダー」のカテゴリーでは1位、総合でも26位になっていたという情報もある。多くのひとが関心をもって予約した。

その一方で、SNSではこの本に対する反対運動が広がった。トランスジェンダーは社会的に「感染」などしない(タイトルを虚心に読めば「ブーム」が感染するのだと書かれているし、社会現象が「感染」することは、取り立てて問題のある視座だとは私は思わないが)、内容は読んでいないが、これはヘイト本である。すでに海外でも、そう評価している人がいるのだと。

しばき隊関係者と思しき人が、KADOKAWAの社屋の前で抗議活動をすると言い出した。また東京のみならず、地方でもその動きに同調する企画が発表された。社屋前での街宣となれば、出版社が震えるのは当然だろう。SNSに詳しければトランスジェンダー関連の書籍は、こうした動きがあるだろう、毎度の騒ぎだと思うかもしれないが、出版社の上層部は寝耳に水だったのではないか。

また実際の依頼や仕事の経験の有無にかかわらず、KADOKAWAとは仕事をしないという著者が現れた。「あちらを出すつもりなら、こちらは出しません」という戦略でジャニーズ事務所が大きくなったように、これをされたら出版社は困る。とくに違う部署の企画などが潰れるのであったらと考えれば、担当編集者へのプレッシャーは非常に大きい。

こうした現象から分かるように、興味深いのは抗議を主導した人たちのなかには、出版関係者が多かったことだ。事実、「トランスジェンダー差別助長につながる書籍刊行に関しての意見書」が出版関係者(出版社勤務・書店勤務・著者等)24名から出された。

発売中止になってからの反応もさまざまであった。まず、「検閲は政府や公権力が行うものであるから、自分たちはなんら学問の自由や表現の自由を侵していない」という意見など。ミルの『自由論』をあらためて取り出して、異なる翻訳で2冊を比べて読み直した。2章を読んで欲しい。ミルが問題にしたのは、まさにこうした「国民による」自由の制限だったのではないか。人類の可謬性を前提とすれば「沈黙させることで人類全体が失ってしまうものがある」のである。

また「自分たちは何もしていない。KADOKAWAが勝手に発売停止を決めたのだ」という意見もあった。これはあまりに無責任な発言であると思う。中身を読まないままに「ヘイト本」であると決めつけて、出版を批判したのだから、ここは素直に目的を達成したことを喜ぶべきなのではないか。

また、「仕事をしない」宣言とは逆の動きも多くあった。つまり、「何かお手伝いできることはありませんか」「勉強したいなら呼んでください」とKADOKAWAに呼びかけるものである。つまり「差別」と批判する一方で、「研修」を申し出る(研修を受けたら、それ以上の批判はされないだろう)という、どこかでみた古くからあるような、新しいモデルである。

さらに興味深いのは、監訳者の岩波さんに対する批判はほぼ皆無だったことである。岩波氏は、トランスジェンダーを専門とされているわけでもなく、またよく知られた有名人である。ところが監訳者には無風であるが、出版社に対する風当たりは、相当な台風であった。

「トランスジェンダーに批判的な(?ほとんどのひとが本を読んでもいないので、どこがどう批判的であるかすら、本当はわからない)本を企画したら、どうなるかわかっているだろうな」という「見せしめ」の効果はじゅうぶんにあった。今後、類書を出す勇気のある出版社はさらに減るだろう。

若い女性の性別移行が問題となり、海外ではトランスを後悔したひとたちからのクリニックへの訴訟が連発されている現在、こうした本が翻訳されることは、性別違和に苦しむ当事者たちにとっても重要なことだったのではないか。批判するにしても、せめて読んでからするべきなのではないか。こうした行動が、どのような社会を導き出すのかについて、あらためて考えて欲しい。

武蔵大学社会学部教授(社会学)

1968年生まれ。東京大学文学部社会学科卒業。東京外国語大学外国語学部准教授、コロンビア大学の客員研究員などを経て、 武蔵大学社会学部教授。専門は現代社会学。家族、ジェンダー、セクシュアリティ、格差、サブカルチャーなど対象は多岐にわたる。著作は『日本型近代家族―どこから来てどこへ行くのか』、『女性学/男性学』、共著に『ジェンダー論をつかむ』など多数。

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