「ぼけますから」監督が抱える後悔と葛藤 コロナで見えた家族のカタチ(後編)
遠く離れた広島で暮らす両親の老老介護の日常のドタバタと悲しい別れを、東京で暮らす一人娘が記録したドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん〜」が、25日から全国で順次公開されている。父母そろって元気だった様子を収めた2018年公開の前作からの決定的な違いは、やはり新型コロナウイルスの感染拡大という要素だった。信友直子監督と父・良則さんに、信友家の食卓を囲んで亡きお母さんに対する思いを聞いたインタビューの前編に続いて後編では、101歳となった良則さんと、自らも還暦を迎えた直子さんに、この先の家族のカタチについて尋ねた。
信友直子監督の母・文子さんは85歳だった2014年、アルツハイマー型認知症と診断された。それまで家事は全部文子さんに丸投げしていた父・良則さんは、自宅で妻を介護すると決断、93歳にして料理や洗濯を始めた。献身的な介護の甲斐もなく、文子さんはコロナ禍の最中の2020年6月、91歳で亡くなった。映画は、懐かしい家族の風景から看取りの現実まで、笑いあり涙ありのドキュメンタリー映画だ。
――お父さん自身、こうやって自分の生々しい生活が映画になって各地にファンがいる。今の心境はどうですか。いいことはありましたか。
父・良則 恥ずかしいような時もあります。歳取っとりますからねえ、ええこというたらあんまり考えんですのう。
娘・直子 ハリになっているというのは絶対にある。多分映画になってなかったら、母がいなくなっただけ。そうするとすごい凹んでたと思うんです。
街を歩けば、「映画見ましたよ!」と声をかけられる地元の有名人となった良則さん。100歳、101歳と、全国各地のファンにオンラインで祝ってもらった。
――舞台あいさつなどではたいてい、「信友直子の親父です」っておっしゃいます。信友良則っていう自分の名前があるのに。
良則 なんちゅうことはないんですよね。まあ娘がおるけん有名になったんでねえ。私自身は大したことないですよね。
直子 「あんたのおかげで有名にさせてもろて」ってよく言っとるんです。うれしいんよね、やっぱり。
――お父さんご自身が介護される側になった時のことを考えるようになったりは。
良則 そがなことは考えんかったですね。これからまたしんどうなるわいの、とは思いよった。年取ったら体がねえ、もうしんどいんですよ。女の人は後から死ぬる言いよったんじゃが、おっかあの方が先に死んでしまった。順番が狂うたんじゃないかって。
直子さんにとっても、父より8歳も若い母を先に看取ることになるとは想定外だった。
直子 お父さんがああやって新聞やら本を積み上げて城みたいにしとるでしょう。母とよう言いよったのは、お父さんが死んだらあそこを開け放って何をしようかって。なのに、お母さんが先に死んじゃった。
――コロナ禍で、普段暮らしている東京と実家の呉との行き来も、大変だったのでは。
直子 実は今もう、だいぶこっち(呉)に帰ってきているんです。半々じゃね。コロナ禍で減ってはきているけど、おかげさまで、上映会や講演会が多くて。西日本で上映会やる時は呉を起点にやっているから、割とこっちにいられるんです。
で、いまはコロナ禍だから、私が1回東京に行って帰ってきたら、普段月水金と病院に行く父が、(家族が感染拡大地域と往来したということで)2週間病院に行けんようになる。ちゃんと病院に行けていたら、看護師さんとかが定期的にみてくれるけど、それがなくなったら不安。父は、耳が遠くて電話に出んことがあるし、こっちに帰ってきたら2週間はいるようにしています。そうしていると、割とこっちに長くいるみたいになってきて。
青年期に戦争の時代を生き、言語学者になるという夢を諦めざるを得なかった良則さんは、東京に出て映像作家として活躍している直子さんは自慢の娘だ。だから、「わしのために呉に帰ってこんでもええ」と常々言ってきた。
――お母さんが亡くなり、本当に一人になってしまいましたが、やっぱり直子さんは帰ってこなくてもいいという考え方ですか。
良則 普段はもう、わたしが元気な時にゃあ、一人でもええです。たいぎい(しんどい)のはたいぎいですけど差し障りが出るようなことはありません。直子が帰らん方がええいうことはないが、あんたも自分の仕事があるじゃろう。自分の仕事で名を売った方が、わしゃあええんじゃないか思うんですがねえ。
直子 パソコンがあったら、いろんなところの人とも仕事ができるんじゃけんね。ここにおっても仕事ができるんよ。直子が帰ってきてご飯作ったらええじゃろ。直子も一人ではおいしゅうないけん、こっちでお父さんと食べた方がええわ。
――この間、テレビ番組から映画を作って、本も出して、結局お父さんをどうするのか、自分自身の老後をどうするのか、いろんな考えが巡ったと思うんですが、大きく変わったところはなんですか。コロナで仕事のやり方も変わり、東京にいなくてもできることは増えましたけど。
直子 私あんまり先々の目標を立てたりするタイプじゃないし、流れのままに生きている感じなのね。でもまあ、ここまで父と母に協力してもらって作品を残して、遺産みたいなもんだと思うんです。ここまでやってもらったから、娘として恩返しをしたいなって思うので、帰ってこようっていう気持ちはどんどん増えているんです。
私にとっては今、東京にいることのメリットってあんまりない。人混みが多いから感染者も多いし、人と一緒にご飯を食べに行ける訳でもないし。いいことないからこっちにいた方が、それこそ食べるものもおいしいし、父のためにご飯作っておいしいって言われたら、なんかうれしいし。
――リモートでできることと、絶対リモートではできないことがある。近くで触れ合う、記録をとるって、リモートではできない。映像作家としてはお父さんがいるから被写体がある。記録された家族の姿が、普遍性を持っているから多くの人に受け入れられる。そう考えても、実際の介護だけでなく、お父さんの近くにいる方が直子さん的にいいような気がします。
直子 でも、父は今かくしゃくとしていて、大きな病気もなく、おもしろいけれど、これから先どうなっていくんだろうって思うんよ。具合が悪くなって、冗談とか言わなくなると、撮っていてもお客さんが観ても辛いものになる。「ぼけますから」シリーズは、やっぱりほっこり幸せな感じにいてほしいから、そうじゃない風になるならしない方がいいのかなって。老醜を晒す父は出さないままがいいのかなとか思ったりしています。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」。信友さんが好きなチャップリンの言葉通りの切り口だからこそ、介護という重たいテーマではあっても、楽しい内容の映画となった。だが、家族が3人から2人家族になったことによる大きな変化を、直子さんは感じているという。
――お母さんが認知症でも、介護するお父さんの存在があったから、チャップリンが言うように引きで見たら喜劇だったけど、1対1だと引きがなくて寄りしかない。
直子 そうそう。結局、私と2人暮らしだと、父しか撮る対象がない。私とツーショットで取ろうと思っても、この家は狭すぎてカメラを置くところがない。本当に引きじりがないんです。それに、娘だから鼻歌ふんふん歌ったりしているわけで、第三者がきてカメラを回しても、歌わないでしょう。
――そう考えたら、「家族がゆえ」というところがいかに大きいかを改めて感じます。家族だからこそ記録できる、生と死と家族のカタチ。
直子 そうですよね。本当に色々見せてもらえたという感謝は、すごくあります。私、人が亡くなっていくさまを見たのが、60にして初めてなんですよ。なんか荘厳さや厳粛さを感じたというか、そういう気持ちになったのが自分でも不思議なんです。
――お父さん、先日横川シネマ(広島市西区)での先行上映後の舞台あいさつで、ご自分のことを「背中がかいい(かゆい)男」だとおっしゃった。今まではおっかあ(文子さん)にかいてもらうのが日常だったが、それを今直子さんがやろうとしても娘じゃダメだってはっきりおっしゃった。お母さんに代わって、って思っていた直子さんは、ちょっとさびしかったのでは?お父さんは「背中をかけるのはおっかあしかいない」と。そして孫の手を使うのが上手くなっていく。
直子 私も突きつけられたと思う。まあ、でもちょっと諦めの部分もあるけどね。そこまで娘が踏み込んじゃあいけんとも思うし。
良則 やっぱりねえ、娘には遠慮がちぃとありますけんね。おっかあには遠慮がなあけんね。ほいじゃけかいてくれ、言うて。
――きっと、お父さんの美学なんでしょうね。かっこよくありたいという。
良則 やっぱり、ちぃと貫禄を見せとかんとね。おっかあには、60年も一緒におったら遠慮があんまりないですわいね。おっかあも、よう言うことを聞かんかったりしますからね。
直子 母の方が私よりも父との付き合いが長いんじゃけん、私は母にはかなわんなって思うとるところがある。なんか、やっぱり自分の意思で一緒になった2人であって、私は東京におって、2年帰らん時もあったし。その間も、父と母はずっと一緒におったわけで。
――お父さんとお母さんだけの時間の方が圧倒的に多いですもんね。家族とはいえ、夫婦と、親子ってやっぱり違う。
直子 私、この話は講演でよくするんだけど、母と一緒に病院でお医者さんから、「認知症です」って告げられた。母はショック受けたんじゃないかと思ったら、割と「あ、そうですか」ってニコニコで。帰り道15分ぐらい2人で歩いている間も診察のことには触れず、「寒いね」とかしか言わんから、「もうお母さんわからんくなったんじゃ」って思ったけど、うちに帰るなり父に、「まったく、私はぼけとらんのにみんながぼけとるぼけとるいうてから」って父に訴えた。それを聞いて、「ああ、やっぱりお母さんはわかっとったんじゃ」って。一番さえんかった(落ち込んだ)のは、15分も一緒に歩いたのに、私にはそういうことを言ってくれんかった。その時点でもう30何年、私は東京に行っとる。そうすると娘も気を遣う相手になったんじゃなって、すごいさびしかった。でも考えようによっては、父には母はなんでも言えるから、お母さんが認知症でも、お父さんがおったら大丈夫って思ったけど。
――お父さんは100歳を超えたけど、直子さんも60歳という節目を迎えられた。何か大きな感慨のようなものはあるのですか。
直子 ありますよ。やっぱり、同級生が役職定年になったり大企業をやめたりとか聞くと、私もこっちに帰ってきてもいい歳なんだなって、戻ってくる方向に背中が押される感じ。だから本当にもう、こっちに軸足は移りつつあるんですよ。お父さん、私ももう60になったけん、もう呉に帰ってきてもいい歳なんよ。
良則 まあ、ええよ。そりゃあ、帰ってもいいよ、そりゃあ。
直子 なんか、お父さんは私におってほしゅうないんじゃないかて思う時もあるんよ。
良則 まあ、そがなこともないですがね。やっぱり親子ですからねえ。おった方が安気(安心)な時はあります。特に雨が降ったりすると買い物もめんどくさいですけんね。なかなか一人で生きるにも料理がめんどくさい。
――お父さんはずっと、この家で暮らすんですか。思い出が詰まった家にいたら逆にさびしくはないですか。施設に入ったりなんていうことは。
良則 ずっとここで暮らすと思いますねえ。さびしいのはさびしいですよ。ほじゃが、しょうがないですけんのう。でも、施設に入るいうことは全然考えておりません。元気な間はここにおります。
直子 多分施設に入ったら女の人から大人気じゃわ。すごい人気者になると思うけど、まあ本人の意思を尊重したいなって思います。
劇場情報などは、映画公式サイトへ。