ビジネスに効く、笑わせるための9つの技術【西条みつとし×倉重公太朗】第1回
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今回のゲストは西条みつとしさん。14年間お笑い芸人として活躍した後、放送作家に転じ、多くの芸人にネタを提供したり、映画やドラマの脚本を手がけたりしてきました。お笑いスクールの講師を務め、笑いあり涙ありの緻密な舞台を構築する劇団「TAIYO MAGIC FILM」の主宰者でもあります。プロとして長年「笑い」を研究してきた彼に、「笑わせる技術」について伺いました。
<ポイント>
・人見知りで「コミュ障」なのに芸人を目指した理由
・吉本芸人にはつらかった「ボキャブラ時代」
・大好きな芸人をやめるという決断の背景
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■進学校にいながら、お笑い芸人の道を選ぶ
倉重:今回は脚本家、演出家の西条みつとしさんにお越しいただいています。西条さんはお笑い芸人や放送作家としてのキャリアをお持ちで、『笑わせる技術〜世界は9つの笑いでできている〜(光文社新書)』という本を書かれています。簡単に自己紹介していただいてよろしいでしょうか?
西条:職業としては、舞台の脚本家や演出家、TAIYO MAGIC FILM(太陽マジックフィルム)という劇団の主催をしています。ここ3~4年でドラマや映画などの脚本、監督の仕事もさせていただきつつ、各事務所の演技講師や、お笑い事務所のお笑いの講師もさせていただいています。
倉重:お笑い事務所の名前を言っても良いですか?
西条:はい。ネプチューンやアンガールズ・イモトアヤコやハライチ・四千頭身などが所属しているワタナベエンターテインメントという事務所の講師や、お笑いのプロのライブのネタ作家をしています。
倉重:この対談では、ゲストがどういう思いで今の仕事に就いていたのか、人生のキャリアを振り返っていきます。西条さんは芸人としてキャリアをスタートされたのですよね。
西条:そうです。高校卒業と同時に吉本興業の養成所に入り、卒業してプロのお笑い芸人として活動していました。
倉重:NSC(吉本総合芸能学院)ですね。最初から芸人になろうと決めていたのですか。
西条:学生時代からです。最初は、中学を卒業してすぐお笑い芸人になりたかったのですけれども、親が反対していたこともあり、せめて高校を卒業してからと思いました。
倉重:高校も進学校でしたよね。
西条:一応進学校で、周りの皆は大学に進学した人がほとんどです。
倉重:そのような中で1人、芸の世界に進むことに不安はありませんでしたか?
西条:不安がゼロかと言われたら、もちろんすごくありましたけれども。それ以上に、お笑いの世界に取りつかれているかのように没頭していました。学生時代の唯一の楽しみはテレビで、そこで癒やされるという過ごし方をしていたので、とにかく人見知りで、誰とも関われない生き方をしていたのです。芸人になれば皆が振り向いてくれるのではないかと思っていました。
倉重:学生当時はどのようなお笑いが好きでしたか。
西条:僕は今42歳ですけれども、小、中、高校時代は、とんねるずやウッチャンナンチャン、ダウンタウンが第一線で活躍しているときで、ど真ん中の世代です。
倉重:一番勢いがあったときですね。
西条:彼らをテレビで見たり、松本人志さんが出した本などを読んだりして、とても影響を受けました。
倉重:松本人志さんの『遺書』という本は世間を賑わせましたね。芸人になりたいという夢を追って、高校卒業とともに芸の道に入られて、すぐに売れたのですか。
西条:初めはNSCというお笑い養成学校に1年間入りました。とても厳しく、怖い場所で、「ここの学校は監獄より厳しいから」と入った瞬間に言われました(笑)。
倉重:同期にはどなたがいらっしゃいますか?
西条:僕は東京NSCの3期生ですけれども、今一番名前が知られている同期はトータルテンボスです。1年後輩の4期にはロバートや森三中、インパルスなど、人気者がたくさんいます。
倉重:有名どころですね。最初はコンビを組まれていたのですか。
西条:そうです。高校の同級生とコンビを組んでいました。もともとコンビを組もうと思って一緒に吉本に入ったわけではなく、1人で入る予定でした。まわりは皆大学に進学予定だったので、お笑いをするために吉本に入ることはなかなか理解されない環境だったのです。唯一言える友達がAMEMIYAでした。彼は大学に受かっていたにも関わらず、僕の話を聞いて、「面白そうだ」と言って、入学をやめたのです。
倉重:アルファベットのAMEMIYAさんですよね。
西条:そうです。「冷やし中華始めました」のAMEMIYAです。
倉重:AMEMIYAさんが芸人になったのは西条さんがきっかけなのですね。
西条:もともとAMEMIYAは「保父になる」と言って、そのような大学に行く予定だったと思います。
倉重:人のキャリアも変えてしまいましたね。
西条:結局2人でコンビを結成することになりました。吉本に入ってからは、最初から養成所の講師に褒められて、いつも優等生として扱われて順調だったのです。
倉重:そこから、NSCが終わって、芸人としてデビューとなったときはいかがでしたか。
西条:養成所の最後にオーディションがあり、生徒約200人の中から数人が受かります。合格するとプロになって、吉本所属になるのです。僕らもプロになりました。
倉重:いきなりふるいにかけられるのですね。
西条:はい。当時は小さな劇場が銀座や渋谷にあり、そこに出演していましたけれども、1~2年ぐらいでつぶれる事となりました。東京の吉本芸人が出る場所がなくなるという状況になったのです。
倉重:その頃は、時代的に吉本以外が強かったのですよね?
西条:そうです。お笑いの世界では「ボキャブラ時代」と言われていて、ボキャブラブームが来ていました。爆笑問題やネプチューン、今のくりぃむしちゅーなど。
倉重:当時は海砂利水魚ですね。
西条:そうです。ボキャブラに吉本興業の芸人はほぼ出ていませんでした。吉本以外の芸人だけ出て、そちらで盛り上がっていたのです。当時、吉本の舞台のお客様は5~10人という、すごく少ない中でネタをしていました。一方、ワタナベエンターテインメントのライブを見に行ったときは、ネプチューンや、ふかわりょうさんなどが、400~500人のお客様の前でネタをしていて、衝撃でした。彼らの人気もすごかったのです。
倉重:「このまま吉本にいていいのだろうか」と思い悩みますよね。そこからどうされましたか?
西条:自分たちの意思も踏まえて、ワタナベエンターテインメントに移籍することになりました。ワタナベに入ってからは、いろいろな仕事も頂き、21~22歳ぐらいで、念願だった地上波のコント番組のレギュラーも持たせてもらったのです。雑誌の表紙など、ネタ以外の仕事もさせてもらいました。
倉重:それはかなり売れてきた感じがしますね。そのときはもうピンですか?
西条:いいえ、ずっとコンビでした。
倉重:そのコンビは途中で解散になるわけですよね。
西条:18歳からお笑いを始めて、吉本からワタナベに移籍して6~7年後、25~26歳のときに解散しました。ある日突然、夜中に相方から電話がかかってきて、「俺、よく考えたら、お笑いが嫌いだった。お笑いを辞めてミュージシャンになる」と一方的に言われ、電話を切られました。僕はあぜんとしましたけど。AMEMIYAは、バンドを組んでどこかの事務所に入ることになったのです。
倉重:なんと・・・お笑いが嫌いとは(笑)。「完全に音楽でいく」ということですか。
西条:メジャーデビューしたのか分かりませんけれども、学生時代の友達とバンドを組んでデビューしたそうです。そこからは1人でずっとお笑い芸人を続けてきました。
倉重:ピンになってからは、「あれきさんだーおりょう」として、エンタの神様などに出ていらっしゃいましたね。
西条:そうです。芸名の「あれきさんだーおりょう」は、ネプチューンの名倉さんにつけてもらいました。元々お笑いのネタを作ることは好きでしたけれども、ピンになってから作るネタは、作品ではなくなっていったのです。どういう事かというと、「売れなければいけない」という焦りで、自分が面白いと思うものではなく、テレビに出るための作品を考えるようになっていきました。
倉重:本来のやりたいこととは少し違っていたのですね。
西条:好きだったお笑いややりたいこととは違い、売れるため、テレビに出るためのネタを作りました。その結果、いろいろなネタ番組には出させてもらいましたが、うまく売れることができず、芸人活動のみでは生活が立ちゆかなくなりました。32歳まで頑張りましたけれども、お笑い芸人を完全にやめることにしたのです。
実は、僕が芸人を辞める1年くらい前に、AMEMIYAから5年ぶりに連絡がありました。
倉重:ここでまたAMEMIYAさんが出てくるのですね。
西条:「バンドを解散した。今お笑いブームが来ているから、俺は音楽をやめて、やはりお笑いをやろうと思う。コンビを組まないか」と誘われました。僕は「それはできない」と言って、断りましたけど。
倉重:では、AMEMIYAさんとコンビ再結成はすることなく、31~32歳ぐらいで、「今後のキャリアをどうしようか」と考えたのですね。
西条:生活していくという点では、芸人を続けていては、ここから先は難しいかもしれない。きちんと生きることに向き合おうと思いました。今まで助けてくれた人や家族などを安心させたいので、現実的に生きていくことにしたのです。
(つづく)
対談協力:西条みつとし(さいじょう みつとし)
1978年4月12日 千葉県出身 映画監督・ドラマ監督・演出家・脚本家・放送作家
TAIYO MAGIC FILM 主宰
2010年3月14年間の芸人活動を辞め、同年4月より、テレビ番組の放送作家として活動。
2012年5月、劇団太陽マジック(現TAIYO MAGIC FILM)旗揚げ。
映画(監督・脚本)
「HERO」監督・脚本(2020年6月)、「blank13」脚本(2018年2月)、「ゆらり」原作・脚本 (2017年11月)、「関西ジャニーズJr.のお笑いスター誕生!」脚本 (2017年9月)
短編映画(監督・脚本)
「JURI」 監督・脚本
映画・受賞歴
「blank13」シドニー・インディ映画祭 最優秀脚本 受賞、「blank13」ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2017 大賞(作品賞) 受賞、「JURI」ええじゃないか とよはし映画祭2019 とよはし未来賞(審査員賞)受賞
ドラマ(監督)
「劇団スフィア」(TOKYO MX・サンテレビ・AT-X)第5話・第6話 監督(2019年10月〜)
「面白南極料理人」(BSテレビ東京・テレビ大阪)第4話・第5話 監督(2019年1月〜)
ドラマ(脚本)
「もやモ屋」(NHK・Eテレ)第2回【おもしろい子はいい子?悪い子?】脚本(2019年10月・11月)
「劇団スフィア」(TOKYO MX・サンテレビ・AT-X)第5話・第6話 脚本(2019年10月〜)
「面白南極料理人」(BSテレビ東京・テレビ大阪)第1〜5話・第9〜12話 脚本(2019年1月〜)
「ブスだって I LOVO YOU」(テレビ朝日)企画・脚本(2018年12月)
「○○な人の末路」(日本テレビ)全10話 脚本 (2018年4月〜)
「オー・マイ・ジャンプ!」(テレビ東京)第3話・第6話 脚本 (2018年1月〜)
「下北沢ダイハード」(テレビ東京)第1話 脚本 (2017年7月〜)
ドラマ・受賞歴
「面白南極料理人」 ギャラクシー賞 奨励賞 受賞
著書
「笑わせる技術〜世界は9つの笑いでできている〜」(2020年5月)光文社新書