【深掘り「鎌倉殿の13人」】牧氏事件は、北条義時のクーデターではなかったのか
![](https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/iwiz-yn/rpr/watanabedaimon/00316533/title-1664000134180.jpeg?exp=10800)
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧氏事件が勃発し、北条時政と牧の方は追放された。事件には非常に疑問が多いが、もう少し詳しく掘り下げてみよう。
■牧氏事件と北条義時
元久2年(1205)閏7月19日、牧氏事件が勃発した。北条時政はライバルの御家人を次々と討滅し、我が世の春を謳歌していた。しかし、そのやり方は時政の専横が目立ったので、御家人だけでなく、子の政子・義時も苦々しく思っていた。
状況を察知した時政は、平賀朝雅を新将軍に擁立し、現職の将軍の源実朝を殺害しようと計画した。これが牧氏事件と称されるのは、牧の方が計画に協力したといわれているからだ。
政子と義時は時政らの幕府転覆計画を知り、時政邸にいた実朝をただちに自邸へと移した。大半の御家人は政子と義時に与同したので、時政はたちまち危機的な状況に陥った。
時政と牧の方は抵抗を諦めて翌日に出家し、直後に鎌倉から伊豆へ追放された。京都守護だった朝雅は上洛していたが、事件の直後に在京武士らに攻撃され自害したのである。
■義時のクーデターか
以上が事件の概要であるが、いささか疑問が残るのも事実である。源頼朝の死後、時政が2代将軍の頼家を伊豆に幽閉し、比企能員ら有力御家人を討つなどしたので、政子・義時姉弟と確執が生じたのは首肯できる。
しかし、いかに平賀朝雅が源氏の流れを汲むとはいえ、将軍候補が京都にいたというのは理解しづらい。牧の方は、実朝を風呂場で殺害しようとしたというが、いかにも稚拙な方法である。
むしろ、義時は邪魔になった時政・牧の方を幕府から追放すべく、あらぬ嫌疑(朝雅の新将軍擁立)を掛けて伊豆に逼塞させ、辻褄合わせに何も知らない朝雅を一気に討伐したようにも思える。
こうすることで、時政与党を幕府政治から追い出し、義時の確固たる地位を築くことができた。事件は牧氏の陰謀というよりも、義時によるクーデターだったのではないだろうか。
■まとめ
時政の追放には、理由が必要だった。それが牧の方による新将軍擁立だった。『吾妻鏡』は北条氏の手の者により編纂されたので、時政のことを悪しざまに書けなかったので、牧の方が前面に出たのだろう。もし、そうであるならば、朝雅は事件に巻き込まれた被害者になろう。