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【「麒麟がくる」コラム】最終回で濱田岳さんが演じる黒田官兵衛が早くも話題沸騰。官兵衛とは何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛は「軍師」と称され、有能ぶりを示す逸話が数多く残っている。(提供:アフロ)

■早くも話題沸騰

 いよいよ「麒麟がくる」が明日で最終回を迎える。早くもネットで話題沸騰なのは、濱田岳さんが演じる黒田官兵衛。いったい官兵衛とは何者なのか、羽柴(豊臣)秀吉の中国計略以降を中心にして考えることにしよう。

■黒田官兵衛とは

 天文15年(1546)、官兵衛は職隆(もとたか)の子として誕生した。孝高というが、以下、「官兵衛」で統一する。出身地については、近江国黒田(滋賀県長浜市)、播磨国黒田庄(兵庫県西脇市)など諸説あるが、いずれも確証がない。現在の兵庫県姫路市あたりと考えるのが妥当だろう。

 官兵衛は父の職隆とともに、御着城(兵庫県姫路市)主の小寺氏に仕えていた。官兵衛に転機が訪れたのは、天正5年(1577)に羽柴(豊臣)秀吉が織田信長から中国計略を命じられたことだ。官兵衛は秀吉に居城の姫路城(兵庫県姫路市)を差し出し、ともに毛利氏と戦うことになった。

 以下、中国計略における官兵衛の活躍ぶりを追うことにしよう。

■備中高松城の攻防

 中国計略に乗り出した秀吉は、毛利氏に与した三木城(兵庫県三木市)、鳥取城(鳥取市)などの諸城を落とし、天正10年(1582)3月頃からは、毛利方の備中高松城(岡山市北区)の攻撃に着手した。

 備中高松城は備前と備中との境目にあった平城で、城主は備中国の有力領主の清水宗治だった。宗治は早くから毛利氏に従い、この周辺地域に勢力を築いていたのである。

 備前、美作、備中(現在の岡山県)には、中小の領主層が数多く存在し、秀吉と毛利氏のいずれに与するか判断を迫られていた。その中で、宇喜多直家は何度も態度を変えながらも、最後は秀吉の味方となった。秀吉と毛利氏は、そうした領主層を味方に引き入れることの重要性を認識していた。

 たとえば、備前児島で流通・商業活動に従事した高畠氏は、当初こそ毛利氏に与していた。しかし、天正10年(1582)2月に秀吉から味方への誘いがあると、毛利方を離れた。このような両陣営による誘引合戦は水面下で激しく行われ、領主層も苦渋の決断を迫られた。

 秀吉は、同年3月から備前、美作の寺社や村落などに禁制を発布した(「牧家文書」など)。内容は、兵卒の乱暴狼藉、放火などを禁止したものである。禁制はそれぞれの要望によって、金銭と引き換えに交付された。

 この禁制発給を取り扱ったのが、ほかならぬ官兵衛である。官兵衛は蜂須賀正勝とペアになって、禁制の発給に従事した。ただ、吉備津神社(岡山市北区)のように制札銭(禁制の代金)の納入に応じないところもあり、官兵衛の苦労は尽きなかったといえよう(「吉備津神社文書」)。

 こうして官兵衛は正勝とペアを組んで、八面六臂の働きをしたといえる。その存在を抜きにして、備中高松城の攻防は語れない。

■水攻めの開始

 備中高松城といえば、水攻めがあまりに有名である。同年5月8日、秀吉は備中高松城近くを流れる足守川を堰き止め、尋常ならざる突貫工事で短期間に完成させた。従来、水攻めの献策は、官兵衛によってなされたといわれている。これは、事実なのであろうか。

 この点に関しては、『黒田家譜』の記述が詳しい。秀吉は難攻不落の備中高松城に無駄な攻撃を仕掛けて、貴重な兵卒の命が失われるのを危惧した。そこで、秀吉は水攻めを思いついたのである。しかし、堰き止める工事は難航を極め、秀吉は官兵衛に命じて、急いで堤防を築かせたという。

 したがって、水攻めのアイデアは秀吉で、堤防を築いたのは官兵衛ということになろう。まさしく官兵衛と秀吉の「二人三脚」というところであろうか。しかし、この説には異論がある。

 官兵衛は小寺氏に仕えている頃から有能な吏僚であったが、土木工事に関しては、さほど実績はなかったと考えられる。近年、提示されている説では、木曽川で川並衆として実績を持つ、蜂須賀正勝らが中心になって堤防が築かれたのではないかと指摘されている。

 水攻めは、一種の兵粮攻めでもある。備中高松城の城兵は消耗するばかりで、徐々に戦意を喪失していった。秀吉の狙ったとおりにことは進み、徐々に戦いは有利に進んだのである。やがて、両者の間には和睦の機運が生まれ、交渉の場を持つようになった。

 しかし、同年6月2日、京都の本能寺に滞在中の織田信長が、明智光秀によって謀殺された。「本能寺の変」である。思いがけず信長が殺されたことにより、事態は急転回を遂げたのである。そして、信長の横死は、官兵衛のその後の運命を大きく作用することになった。

■逸話の真相

 なお、「信長死す」の一報が秀吉のもとにもたらされた際、官兵衛は「ご運が開けましたな」と秀吉の耳元で囁いたという。この言葉に対して、秀吉は官兵衛の恐ろしさを感じ取ったという逸話がある。

 秀吉は自分に代わって、やがて官兵衛に天下を取られるのではないかと考え、遠ざけて冷遇したといわれているが、まったく根拠のない単なる創作である。同時に官兵衛には優れた戦いぶりを示す逸話が多々あるが、いずれも後世の編纂物に書かれたもので信が置けない。

 また、官兵衛は「軍師」と称されるが、戦国時代には「軍師」なるものは存在しなかった。実際には、軍配師なる者が作戦を指示したが、それは出陣の日取りなどを占いで決めたにすぎなかったことを申し添えておきたい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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