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ボスニアのスレブレニツァ虐殺事件、その痛みは消えず 国連が「追悼の日」を採択したが、68カ国が棄権

小林恭子ジャーナリスト
メモリアルセンターに並ぶ、墓標の数々(筆者撮影)

 「メディア展望」(新聞通信調査会発行)7月号掲載の筆者記事に補足しました。

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 ウクライナ戦争、ガザ紛争など戦争の生々しい現状が世界各国のお茶の間のテレビに届けられるようになった。「戦争」と言えば第2次世界大戦を指し、遠い昔の出来事という認識を改めざるを得なくなっている。

 欧州で発生した戦争の中でも、いまだ傷痕が深いのが1992―95年のボスニア紛争である。4年弱の紛争の結果、死傷者20万人、難民・避難民は住民の半数に上る約200万人に上った。

 1992年3月、ユーゴスラビア連邦(当時)からの独立を宣言したボスニア・ヘルツェゴビナで発生した、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(イスラム教徒系ボスニア人)による戦いであった。

 支配地域から他民族を追い出す民族浄化が横行し、紛争末期の1995年7月、国連が「安全地帯」として指定していたボスニア東部スレブレニツァにセルビア系の武装勢力が侵攻し、ボシュニャク人の少年や男性たちを次々と殺害した(「スレブレニツァの虐殺」)。犠牲者は8000人を超える。遺骨が見つからない人も多く、スレブレニツァの集団墓地には身元が確認された遺骨を埋葬する式典が毎年行われている。

 1995年12月、米欧などの介入によって和平が実現し、現在のボスニア・ヘルツェゴビナはボシュニャク系、セルビア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系住民による「スルプスカ共和国」という2つの主体によって構成される。それぞれが独自の大統領、政府を有するなど高度に分化されている。

国連決議では立場割れる

 来年7月はスレブレニツァの虐殺発生から30年目となる。

 今年5月23日、国連総会は毎年7月11日を「1995年のジェノサイドを反省し、記念する国際的な日」とする決議を採択した。セルビアを含む複数の国は決議が「セルビア人を悪者扱いしている」として決議反対の運動を行ったが、日本を含む84カ国が賛同し、採択が実現した。19カ国は反対し、68カ国は棄権、22カ国は投票に参加しなかった。国連常任理事国の5カ国では米英仏が賛成し、ロシアと中国が反対した。

 決議はドイツとルワンダの提案による。ドイツのリンデルツェ国連大使は決議の目的について「犠牲者の記憶に敬意を表し、破滅的な時の傷を今も抱える生存者を支援するため」であり、「免責と闘い、ジェノサイドの説明責任を追及する国際法廷の役割を強調するものである」と説明している。決議はセルビアを含む特定の国に向けたものではなく、「ジェノサイドの実行者に向けたものと言える」。セルビアのブチッチ大統領は、決議は「非常に政治的な動きだ」と批判した。

 国連が設置した「旧ユーゴスラビア国際刑事法廷」(1993-2017年)は旧ユーゴ紛争での人道犯罪を裁いた。ブチッチ大統領は法廷の場でスレブレニツァでの犯罪行為が既に裁定済みであると述べ、「この決議は『パンドラの箱』を開けることになる」と主張した。セルビア側は決議がセルビア人に「集団的な罪悪感」を科すものであるとして、採択への反対運動を行ってきた。2010年、セルビア議会はセルビア軍勢力によるスレブレニツァで発生した犯罪を非難し、大量殺害を防ぐために全力を尽くさなかったことを犠牲者に謝罪する声明を出した。この時、この「犯罪」は「ジェノサイド」としては表明されなかった。

スレブレニツァを訪ねる

 国連の決議が行われた日の翌日となった5月24日、筆者はスレブレニツァを初めて訪れた。会員となっている国際新聞編集者会議(IPI)の年次総会が丁度ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで開催されており、一歩足を延ばした格好だ。

 ツアーに申し込み、ガイド兼運転手の男性と筆者を含む3人の参加者が1台の車に乗り合わせた。サラエボからスレブレニツァまで、車では2-3時間を要する。

ガイドのベダド・ハスターさんは「サラエボ生まれサラエボ育ち」。1982年に生まれ、ボスニア紛争発生時は10歳だった。「戦争を生き延びた」という。どの民族かは語らなかったが、旧国立図書館の前を通ると、「この中にあった200万点もの本や資料が破壊された。信じられるか?」と問い掛けてきた。1992年8月、セルビア人武装勢力の攻撃を受けたためだ。

ガイドのハスターさん(筆者撮影)
ガイドのハスターさん(筆者撮影)

 緑溢れる木々や山並みを窓から眺めるうちに時間が過ぎ、スレブレニツァに設置された虐殺記念碑と墓地に到着した。

 墓地の入り口の石碑には8700余りの遺体が収められていると書かれてあった。どこまでも続く白い墓標。その1つ1つには犠牲者の名前と年齢が書かれている。まだ墓標ができておらず、土をかぶせただけの場所もところどころにあった。「今でも捜索が続いているから、誰も遺体の総数は分からない」とハスターさん。

 かつて国連軍が駐屯場所として使っていた工場跡にも行ってみた。中は薄暗く、自然光が入って来るだけだ。当時の国連軍のトラックが1台、置かれていた。

 1995年7月当時、スレブレニツァ地域は国連の非武装地帯=安全地帯と認定され、軽武装のオランダ軍部隊600人が警備に当たっていた。7月11日、セルビア人勢力がスレブレニツァを占領する。ボシュニャク人市民らの避難先の1つとなったのがポトチャリにあるオランダ軍部隊の基地だった。戦闘激化に伴い、オランダ軍は降伏。数日間にわたって、スレブレニツァ近辺で数千人規模のボシュニャク人たちが殺害された。

逃げ惑う住民たちのパネル(筆者撮影)
逃げ惑う住民たちのパネル(筆者撮影)

 基地があった工場内にはいくつかのパネルが置かれており、その一つには「UN=United Nothing(国連=何もしない集まり)」と書かれた落書きがあった。

国連の対応を批判する落書きのパネル(筆者撮影)
国連の対応を批判する落書きのパネル(筆者撮影)

 英国大使館による特別展示では、攻撃から逃げようと山中を歩いたボシュニャク人たちの靴が並べられたコーナーがあった。第2次大戦中、独ナチスが設置したアウシュビッツ強制収容所に置かれているユダヤ市民が残した何足もの靴を想起させた。

 工場跡を出て、資料館に入る。これまでの経緯についての資料や展示が複数の小部屋に分かれて置かれていた。平日だったが、どの部屋にもたくさんの訪問客がいた。資料を見る前に、まずは短編映画が上映された。セルビア軍に処刑されるボシュニャク人の動画が映しだされると、会場内のあちこちからすすり泣きが聞こえた。30年近く前の出来事でも、未だ生々しい傷と記憶が残っているのである。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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