Yahoo!ニュース

一緒にいると自己肯定感が下がる彼氏や旦那をどうにかする方法とは?「自己肯定感は他者に支配されている」

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

自己肯定感を上げる方法として「現状を認めることから始めよう」とか、「自分を大切にしよう」など、無理難題というか、何をどうすればいいのかよくわからない漠然とした言説が日本中を覆っています。日本中を覆っているという言い方が大げさだと思うのなら、ネットで「自己肯定感 高め方」と検索してみるといいです。漠然とした解決法や無理難題が即座に、検索上位に出てきます。

さて、今回は、一緒にいると自己肯定感が下がる彼氏や旦那をどうしたものか? というテーマのもと、あなた自身の自己肯定感の引き上げ方について一緒に見ていきたいと思います。

他者との関係が前提されている

みなさん、自己肯定感について考える時、とかく「私の」自己肯定感について考えていますが、自己肯定感には常に、他者との関係が前提されています。なぜなら、私たちはこの世に生まれ落ちた瞬間から、この世を去るまで、現に他者との関係にさらされているからです。したがって「あなたの」自己肯定感も、他者との関係にさらされており、それを前提として「私の自己肯定感の低さをどうしたものか」と思考するしかありません。

というわけで、他者との関係を前提とした「あなたの」自己肯定感についてお話しましょう。

相手=自分

例えば、彼氏(旦那)と一緒にいると「私の」自己肯定が下がる場合、相手の自己肯定感、すなわち彼氏や旦那の自己肯定感も下がっています。相手が仕事から疲れて帰宅し、やや不機嫌そうに黙って缶チューハイのストロング缶をなげやりな態度でグイ飲みする時、あなたは「なんじゃい」と思います。「こんな人」と一緒に暮らしている私って何なのだろう。ああイヤだ。

ね? 相手の自己肯定感が低い時、あなたの自己肯定感も下がるのです。

反対に、仕事で疲れて帰ってきた相手が「ちょっと肉を食べたいから今から肉を焼くけど、きみも食べる? チキンのゴルゴンゾーラソースがけ」なんてポップなことを言う人なら、あなたの自己肯定感もやや上がるでしょう。

私たちは常に「自分を相手に投影しつつ」暮らしています。簡単に言えば「相手=自分」なのです。つまり、相手のイヤなところは即あなた自身のイヤなところであり、相手のいいところは、あなたも実は持っているいいところなのです。

なぜ小説が売れないのか?

ところで、何年も前から「小説が売れない」と言われ続けています。現に私の小説も売れていません。まどろっこしくて読んでも理解できないものなんか読んでられるか。そう思う人がきっと多いのでしょう。

しかし、小説を読むというのは、あなたが心の中に宿している「よくわからないもの」を読むことを意味します。あなた自身が「わざわざ直視したくない」と思って蓋をしている気持ちを「読む」ことが、小説を読むことです。あなた自身が「暗くてじめっとした感情を表に出すと仲間はずれにされるかも」と思って隠している気持ちを「読む」ことが、小説を読むことです。つまりあなた自身を読むことが小説を読むことなのです。

自己肯定感というのは、「いつも明るく元気に!」というおかしな宗教みたいなことを常に信じる気持ちではなく、「私が私でよかった」と思える気持ちのことです。「私」は常に、明るく元気な自分と、暗くてじめっとした自分の両方を、心に抱えています。後者を「なかったこと」にするから、誰かといると自己肯定感が下がるのです。つまり、あなたが「なかったこと」にすべく蓋をして「慎重に生きている」にもかかわらず、その気持ちを彼氏(旦那)が堂々とあなたに見せつけるから、「あなたの」自己肯定感は下がるのです。

答えは3択

「他者=自分」ということが理解できれば、一緒にいることで「私の」自己肯定感を下げる彼氏(旦那)は、あなたが隠しているあなた自身だと理解できるようになります。やがてそれは、いとおしむべき存在だと思えるようになります。「相手=自分」ということが理解できれば、相手のふるまいを見てイヤな気持ちになることはあれど、そのことで自己肯定感が下がることはないのです。

彼氏が毎朝、開店前のパチンコ屋に並ぶゆえに「私の」自己肯定感が下がる彼女はまず、あなた自身の心に宿る「自分の人生に絶望している自分」と対話してみてはいかがでしょうか。その結果、あなたも開店前のパチンコ屋に並ぶようになるかもしれません。反対に、彼氏とよく話をすることで彼氏がマジメ人間に矯正されるかもしれません。あるいは、ある日突然「この彼氏、無理」と思って別れるかもしれません。

自己と対話するというのは、そのいずれかの結果をもたらします。相手のことが好きであろうと嫌いであろうと、要するに「自分=他人」でしかないからです。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

ひとみしょうの最近の記事