大けがから復活した関東のホープは、今週末、復帰後初となる重賞制覇を目指す!!
落馬し長い闘病生活へ
「あ!!」
そう思った次の瞬間には馬場に叩きつけられた。
「痛い!!」
最初はそう思った。しかし、次の刹那、「いや、痛みとは違う感覚」と感じた。そんな言葉に出来ない感覚が襲って来たのだ。
初めて味わうそれに、ただ事ではないとすぐに分かった。その感覚のする方向、すなわち左足を見て驚いた。
「足があり得ない方向に曲がっている……」
こんなにも簡単に折れてしまうのか?!と思いつつ、同時に「出来る事なら気を失いたい」と思った。それくらいキツい時間は、その後も続いた。
競馬場で検査をする必要もないくらいひと目で重傷と分かる事態に、すぐ救急車に乗せられた。病院へ搬送される間も苦しい時間は続き、到着後も「とにかく半端ではない痛み」しか感じられなかった。
初勝利まで時間を要すもその後、飛躍
石川裕紀人は1995年9月、東京都杉並区で生を受けた。両親が競馬ファンだったため、幼い頃から競馬場へ連れて行ってもらった。
「ジャングルポケットが勝った日本ダービーを観たのも覚えています」
2001年の話だから彼はまだ5歳。いかに幼少時から競馬をみていたかが分かる。
小学4年生から乗馬を始め、中学の時には美浦トレセンの乗馬苑で、騎手を目指す子供達が集まるジュニアチームに入る事が出来た。
中学卒業後、競馬学校に入学。14年3月には美浦・相沢郁厩舎からデビューを果たした。
「相沢先生は基本的にすごく優しくて、騎乗馬も用意してくださいました」
しかし、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、とうとう3カ月経っても勝つ事は出来なかった。
「先生始め周囲の皆さんからは『焦ることはない』と言われたけど、同期は次々と勝ち上がるし、正直、焦りました」
そんな石川だが、それまで勝てなかったのは大きくジャンプするためにしゃがんでいたのか?!と思える活躍を見せる事になる。
6月1日、ついにその日はやってきた。初騎乗以来47戦目にしての初勝利。それは13万人を超すファンに埋め尽くされた東京競馬場。なんと日本ダービー当日だったのだ。
結局この年は12勝まで勝ち星を伸ばすと、翌15年は一気に40勝。続く16年も43勝。一躍乗れる若手として注目される存在となった。
重賞初制覇直後に落馬で大けが、そして復帰
4年目となった17年も流れは悪くなかった。7月2日の福島競馬では、セダブリランテス(美浦・手塚貴久厩舎)に騎乗してG3ラジオNIKKEI賞を優勝。自身初となる重賞制覇も飾ってみせた。
しかし、好事魔多し。その僅か2週間後の7月16日、同じ福島競馬場で冒頭に記した事故に見舞われた。3コーナー手前、騎乗したダイワエキスパートが予後不良になるほどのけがを発生。もんどり打った同馬から投げ出された石川は、左下腿骨骨折の重症を負い、戦列から離れる事となった。
「普段の調教から乗っている馬でした。あれほどの故障をすると言う事はどこかで必ずサインを出していたと思うのに、それを感じ取ってあげる事が出来ませんでした」
その代償は大きかった。福島で1度、つくばの病院へ転院してからも1度、手術したが回復に手間取った。焦る気持ちもあって、秋には復帰しようとトレセンや時には競馬場にも顔を出したがこれがよくなかった。
「折れた骨が完全につく前に歩き回ったせいで痛みが再発してしまいました」
診断の結果、再び入院して手術する事になった。
「病院で年越しをして、松葉杖が外れたのは3月も終わろうかという時期でした」
辛く長い日が続いた。当然、焦る気持ちがまた頭をもたげたが、1度失敗している事を胸に刻み自制。代わりに上半身を中心に筋トレだけは欠かさず続けた。下半身も患部に負担のかからない範囲で鍛えられるところは鍛えた。
こうして4月に退院すると、すぐに馬上の人となった。
「まずは競馬学校で乗せてもらいました。筋トレは続けていたせいか、乗り終えた後も筋肉痛にはなりませんでした」
それからは順調だった。4月28日の東京競馬で復帰。翌週5月5日には同競馬場で復帰後初勝利を相沢厩舎のグリズリダンスに乗って記録した。
「相沢先生には『良かったね』と言っていただけました。先生始め良い馬に乗せてくださった皆さんに感謝するばかりです」
今週末に行われる新潟記念で、石川はセダブリランテスに騎乗する予定でいる。戦線離脱直前に重賞を勝たせてくれた同馬で、今度は戦列復帰後初となる重賞制覇を飾る事が出来るだろうか。注目したい。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)