今日は「新選組の日」。若き剣客集団の京都での活躍を追う。
文久3(1863)年2月、14代将軍徳川家茂の上洛警護のために、江戸にて浪士隊が集められた。集まったのは200数十名の浪士達。2月8日に江戸を出発して23日に京都の壬生に着いたが、呼びかけ人であった出羽郷士の清河八郎は皆を集めて、「今回の上洛の目的は将軍警護にあらず、尊王攘夷の急先鋒となることだ」と宣言したことから大騒ぎとなり、浪士隊は江戸へと返されることとなった。しかしそんな中で当初の目的を完遂するべく京都に残留した22名の浪士が、京都守護職を務める会津藩の援助のもとに新選組の前身「壬生浪士組」を結成する。
拠点としては最初に入洛した壬生(八木邸や前川邸等)に置き、後に西本願寺、最後は不動堂村に移った。
隊士の中でも局長の近藤勇を補佐する役割であった土方歳三は、内部粛清や隊士募集を行って組織を拡大し、「八月十八日の政変」への出動と、それにともなう「新選組」という隊名の拝受、9月には芹沢派の実力者であった新見錦の殺害と、近藤勇と新選組を二分していた芹沢鴨の暗殺を経て、新選組の主導権を完全に掌握する。
翌年の元治元(1864)年4月下旬、新選組は先の政変で京都を追われたはずの長州人が多数市内にいることを突き止め、さらに6月には古高俊太郎を捕縛し、拷問にかけると6月7日の祇園祭当日に御所付近に火を放って天皇を連れ去る話し合いがもたれることを自白したため、ただちに会合を取り締まるべく出動した。世に言う池田屋事変である。
事件の経緯は、近藤隊と土方隊の二手に分かれて探索し、池田屋にて大勢の志士たちによる会合を発見した近藤隊は、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人で踏み込んだ。激戦の末、土方隊の到着もあって吉田稔麿や宮部鼎蔵などの有力者を討ち果たし、20数名を捕縛するという大戦果を上げ、天下に新選組の名が轟くこととなった。
その後、隊士を増やして150名の大所帯となった新選組は鉄の掟とされる「局中法度」を制定、違反者は全て切腹という凄まじいもので、これによって多くの隊士が処分され、その中には古くからの盟友で幹部でもあった山南敬助や、新選組の参謀まで務めて「御陵衛士」を結成した伊東甲子太郎なども含まれていた(伊東の場合は斬殺)。
しかし、この間にも時勢はどんどんと幕府に不利に傾き、慶応3(1867)年10月には15代将軍徳川慶喜によって大政奉還が奏上されるが、12月には王政復古の大号令が発せられ、幕府や新選組は京都を追われることとなった。
明治元(1868)年1月3日に「鳥羽伏見の戦い」が勃発すると、最前線の伏見奉行所では新選組の指揮をとる土方の姿があった。局長であった近藤勇は先に斬殺した伊東甲子太郎の一派によって墨染街道にて狙撃され、戦線離脱を余儀なくされていたからだ。
新選組は伏見奉行所に陣を構え、御香宮神社に布陣する薩長軍と向かい合う。高台から大砲など最新の銃器で発砲してくる薩長軍に対し、新選組は得意の剣を手にした白兵戦で果敢に挑んだが、圧倒的な火力を前に前進を阻まれた。
戦いの途中で満を持して「錦の御旗」を掲げた薩長軍は官軍となり、一気に戦意を喪失した幕府軍は総崩れとなり、新選組の隊士も死傷者や離脱者が続出し、最後の拠点となる大坂城に着く頃には100人に減っていた。
さらにそこではあろうことか、総大将の徳川慶喜は、恭順の意を示すべく城を抜け出し、既に海路江戸へと向かっていたのだ。江戸に帰った土方は「もう槍や刀では戦争というものはできません」と話したという。土方が作り上げた最強の剣客集団「新選組」は、西洋の最新の銃の前に敗れ去ったのだ。