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男子バレー八子大輔が引退。「期待に応えられなかったけれど、幸せなバレー人生でした」

田中夕子スポーツライター、フリーライター
今季限りで引退を発表した八子大輔(写真提供/JTサンダーズ広島)

立ち見客も出るほど注目を集めた高校時代

 初めて取材した高校時代、大げさではなく、スポットライトの下で輝く、とか、実に安易で陳腐とも言うべき表現をこれほどまでに体現する選手がいるのか、と驚いた。

 それぐらい、八子大輔は輝き、これまた安易な言葉を使うと、キラキラしていた。

 高校生離れした高さとスター性。器用ではなかったが、とにかくひたすら打ちまくる。チームメイトにも恵まれ、楽しそうにプレーして勝利を重ね、日本一に輝く姿は人気も注目も集め、後に、東海大とJT広島で長年プレーしてきた安永拓弥が高校時代の関東大会を振り返り、八子の凄さを揶揄したことがある。

「僕は無名の高校だったから、関東大会も初めて。2階にぶわーっと人がいて、『やっぱり関東大会になるとこんなにたくさんの人が見に来るんだ』と思ってびっくりしたら、ほぼ全員、八子さんと深谷高校(埼玉、八子の母校)を見に来た人たちでした(笑)」

 現在ヴォレアス北海道のリベロでもある渡辺俊介が主将を務めた深谷高校は05年、06年の春高を制し、八子は大会ポスターの顔にもなった。

 大会になれば多くのメディアやファンが集まるだけでなく、常に注目の的。いくら日本一になったとはいえ、高校生にそんな生活が不自由ではなかったかと尋ねると、当時と変わらぬ笑顔を見せる。

「全然。あれだけ取り上げてもらえて、ありがたかったし嬉しかったです。高校時代はただただ楽しいしかなかったですね」

 プレッシャーを感じ始めたのは大学に入ってから。高校とは段違いの技術レベルと意識の高さで、日々の練習や日常生活も厳しく、当然大学生活でバレー人生が終わるのではなく、選手として、人として、これからへつながる土台を築く4年間。2つ上には大学在学時から日本代表にも選出されていた清水邦広(パナソニックパンサーズ)が在籍、チームの中心であったこともあり、自ずと八子も将来を考え、初めてプレッシャーを感じるようになった、と振り返る。

「全日本(日本代表)に行かなきゃいけない、活躍しなきゃいけない、という思いが強くなりすぎたんです。正直に言うと、高校から大学に入ったばかりの頃は天狗になっていたというか、高校であれだけやれたんだから大学でもある程度できるだろう、と思っていました。でも実際は全然違ってただ上から打つだけでよかった、高校時代なら決まったスパイクも簡単に拾われる。なかなか結果が伴わなくて、自分ではヤバイ、と思っているけれど周りからは“あの八子だ”と見られている気がして、実力とのギャップがきつかった。バンバン上から打ってナンボが自分のスタイルだったのに、うまくやらなきゃ、と思いすぎて自分のスタイルが崩れていくこともありました」

05年のインターハイ、05、06年の春高を制した深谷高校時代。前列右から2人目が八子
05年のインターハイ、05、06年の春高を制した深谷高校時代。前列右から2人目が八子写真:アフロスポーツ

相次ぐケガで失うチャンス

 プレッシャーだけでなく、八子を苦しめたのがケガだ。

「足首、膝、肩、腰、手首。関節という関節は全部ケガした」と今でこそ笑うが、調子が上がって来た時、チャンスが訪れた時に限ってケガが続き、何度も苦しんだ。

 発端になったのは大学3年時の左足関節捻挫だった。

 清水が卒業したチームのエースとして自他共に期待と責任が高まる中、春季リーグに向けた練習時、身体も感覚も絶好調だった。何をやってもうまく行く。今までにもなかなかない感覚を味わう最中、スパイク時のジャンプから着地する際、左足首をひねった。誰かの足に乗ったとか、避けたのではなく、ただ普通に打つべく跳んで着地しようとしただけ。何でもない場面で生じた捻挫だったのだが、受傷後に足首の可動域が制限され、ジャンプする際に床を思いきり蹴ることができない。無理に跳ぼうと別の力を加えるうち、今度は違う場所に痛みが生じ、新たなケガにつながる。負のループを招いた。

 とにかく跳んで、相手より高い場所から打つ。そんな自身の持ち味もケガで活かせず、そのたび落ち込んだことは数えきれない。

 だが、自分の武器は何かと模索し、やはり攻撃力を磨くしかないとまたひたすら練習を重ねる。09年には日本代表に初選出され、ワールドグランドチャンピオンズカップや11年のワールドカップにも出場。しかし、大会前には「次世代のエース」注目されながら、ケガも重なり満足行く結果を残すことはできなかった。

「チャンスが来た、と思うとケガをする。応援してくれた人や、戦力だと期待してくれたチーム、代表に選ばれて嬉しいのに、応えられない自分に落ち込んだし、申し訳ない気持ちしかなかったです」

日本代表に選出され、期待されながらもケガが相次ぐ。八子自身も葛藤が続いた
日本代表に選出され、期待されながらもケガが相次ぐ。八子自身も葛藤が続いた写真:アフロスポーツ

初めて「日本一」をコートの外で見たほろ苦いJT初優勝

 思うような活躍ができない状況でも1試合1試合、1年1年、その時々に課題と向き合い、受け止める。JT広島でのシーズンを振り返っても、決していい時ばかりでなく苦しいことも多くあったが、その中で印象深い試合を「たくさんあるけれど一番をつけるならやっぱりこの試合」と挙げたのが、14/15シーズンのVリーグ決勝。JT広島が創部以来84年で悲願の初優勝を決めた試合だ。

 長期離脱を余儀なくされるようなケガもなく、このシーズン、八子は1学年下の小澤翔(現・東海大男子バレー部監督)と切磋琢磨しながら出場機会を重ねた。

 どちらが出るかがわかるのは試合直前。その日の動きや相手との相性を見て、公式練習時に当時チームを率いたヴェセリン・ヴコヴィッチ監督から「今日は八子」「今日は翔」と告げられる。毎回緊張感を伴い、いい意味でのライバル心を持ちあいながら長いシーズンを戦い、12月の天皇杯全日本バレーボール選手権大会で優勝した時は八子も小澤もコートに立った。

 だが、それから4か月後のVリーグ決勝で、八子の出番は最後まで訪れなかった。

「この試合が翔にとって最後で、めちゃくちゃパフォーマンスもよかった。優勝したいし、勝ちたいから嬉しいし、翔が活躍するのも嬉しいんです。でもやっぱり選手である以上は試合に出て勝ちたいし、今まで、高校、大学、日本一になった時に出なかったことはないんです。最後までコートに立てないまま優勝したのは、あの時が初めて。2割は嬉しい、でも8割は悔しい。初めての感情でした」

初優勝した14年の天皇杯には出場。日本一の喜びをコートで味わったが、Vリーグ決勝はコートに立つことができず創部以来84年での初優勝も喜びと共に苦い記憶が残った
初優勝した14年の天皇杯には出場。日本一の喜びをコートで味わったが、Vリーグ決勝はコートに立つことができず創部以来84年での初優勝も喜びと共に苦い記憶が残った写真:アフロスポーツ

仲間、先輩、友人に感謝と後輩にエール。

「不器用でも、俺みたいになるなよ」

 ここ数年はリザーブに回ることが多く、ケガもあり、出場機会は限られた。

 それでも本気で「今年は絶対レギュラーを取りに行く」とチームが始動する6月から好調を維持し、開幕直前までレギュラーの座をつかみながら、直前になってメンバーから外されたこともあり、その時はさすがに「腐りかけたこともあった」と苦笑いを浮かべる。

 だが、そんな悔しさも八子にとっては新たな気づきを得るきっかけになったのも事実だった。

「もう若手ではないし、今の自分の立場、立ち位置というか、出してもらえる時間の中でどれだけ自分らしいプレーができるか。限られた時間なら余計に、うまくやろう、じゃなくて、後悔しないように自分のスタイルを貫こうと思うようになりました。自分の調子がいいからといって、チームスポーツである以上思い通りに行かないこともあって当たり前。だからこそ、後悔しないように思いきりやろうと思ったし、ずいぶん長い間自分の良さ、こだわってきたことを見失っていたんですけど、自分はガムシャラに点を取りに行く、決まったら喜ぶ、という選手だよな、というところにたどり着きました」

 最後にユニフォームを着て多くの人の前でプレーすることはかなわなかったが、引退が決まり、これまでお世話になった恩師や先輩、仲間、友人。直接感謝を伝えようと連絡するたび、それぞれの思い出がよみがえり「こんなにたくさん、感謝を伝えたい人がいるんだ、と思ったら、それだけで幸せなバレー人生だと思った」と笑う。

「大学や、代表でもお世話になった清水さん、福澤(達哉 パナソニックパンサーズ)さんにも電話しました。清水さんは『ちょっと報告があるんですけど』と伝えたら、それで察したらしく『悲しいこと言わんでや』って。それから10分以上話して、最後は“よう頑張ったな”って。福澤さんからも『これからの人生のほうが長いし、今まで経験してきたことは貴重で、絶対今後に活きてくるから』って。すごくありがたかったし、嬉しかったです」

 これからはバレーボールを離れ、ユニフォームやボールと離れた新たな人生が始まる。

 慣れない通勤や社会生活に不安もあると笑うが「わからないことはわかるフリをせず、カッコ悪くても何でも聞くと決めている」という表情は頼もしく、きっとどんな道でもこれまでと同じように朗らかに、多くの人に愛されながら進んで行くのだろうと想像するのは、いともたやすい。

「バレーから離れる生活が今はまだ想像できないんです。でも(同期の)俊介はまだ現役だし、福澤さん、清水さん、富松(崇彰 東レアローズ)さん、先輩方も頑張っている。(大学とJT広島の後輩の)新井(雄大)とか見ていると、不器用でバンバン打つタイプだから自分と重なって、大丈夫か、これから頑張れよ、俺みたいになるなよ、とか思っちゃうし(笑)、気になることも、応援したい選手もいっぱいいる。いい時も、悪い時も関わってくれた人たち、支えてくれた人たちに感謝しながら、また違う目線でバレーボールを見て、自分のこれからも、頑張って行こうと思います」

 優勝して、数えきれないほどのカメラや記者に囲まれても笑顔で取材に応じる姿。大学生でVリーグチームと対戦し、あと一歩で敗れると人前でも感情を露わにし、悔し涙を流す姿。日本代表でもJT広島でも、ブロックが揃った状況でも逃げずに真っ向勝負したスパイクをきれいに止められ、先輩や仲間から「たまにはかわせよ」とからかわれ、苦笑いを浮かべる姿。

 トスを託され、決まっても決まらなくても、いつでも八子の周りには必ず彼を支え、励ます人がいて悔し泣きの時ですら、周りには「よくやったよ」と称える笑顔があった。ケガに泣き、不器用で、日本代表の中心にい続けるような選手だったわけでなくとも、紛れもなく彼は一時代を担い、築いた存在で、ブロックされる姿すら華のある稀有なスターだった。

 たとえコートを離れても。プレッシャーもケガも乗り越えて来たように、どうかこれからも変わらぬキラキラした笑顔で。新たなスタートに、心からの感謝とエールを送りたい。

現役引退する八子。笑顔で新たなステージへ歩み出す(写真提供/JTサンダーズ広島)
現役引退する八子。笑顔で新たなステージへ歩み出す(写真提供/JTサンダーズ広島)

スポーツライター、フリーライター

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、月刊トレーニングジャーナル編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に「高校バレーは頭脳が9割」(日本文化出版)。共著に「海と、がれきと、ボールと、絆」(講談社)、「青春サプリ」(ポプラ社)。「SAORI」(日本文化出版)、「夢を泳ぐ」(徳間書店)、「絆があれば何度でもやり直せる」(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した「当たり前の積み重ねが本物になる」(カンゼン)などで構成を担当。

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