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「発言捏造」で賞狙う?読売新聞「千人計画」特集を憂う

榎木英介病理専門医&科学・医療ジャーナリスト
世界最大の発行部数を誇る読売新聞。その取材姿勢が問われる。(写真:Masato Ishibashi/アフロ)

 今年(2021年)3月末に書いた記事「読売新聞「千人計画」特集が覆い隠す日本の基礎科学の危機」で、私は、中国に渡る日本人研究者が増えている問題の本質は「軍事応用を狙った高給引き抜きによる技術流出」ではなく、「中国が近年研究レベルを向上させる一方、日本では研究環境悪化が続き、基礎科学の人材が流出している」ことにあることを指摘した。

 このため、読売新聞が執拗に中国の高度人材採用計画「千人計画」で日本の先端技術を盗んでいるという「陰謀論」のような論調は、日本の基礎科学の問題点を覆い隠してしまうのではないかと懸念している。

 残念ながら読売新聞は私の記事発表以降も、一面トップ記事を含め、「千人計画」特集を繰り返し継続している。それらの多くは、前回の記事で指摘した問題点、例えば「千人計画とは高給引き抜きで軍事関連技術を狙うもの」といった論調をそのまま引き継いだものとなっている。

 前回の記事執筆後、千人計画採択者を含む中国の日本人研究者やメディア関係者の様々な声を得た。本稿では、情報提供者の許可のもと、それらを紹介したい。

「発言捏造」

 昨年5月、読売新聞は千人計画について下記の一面記事を掲載している

[安保60年]第2部 経済安全保障<1>技術狙う中国「千人計画」

 記事中ではある日本人研究者が、「千人計画への参加を通し、中国の大学に高待遇で引き抜きをされ、その引き換えとして軍事関連技術を流出させている」という論調で登場している。しかし、前回記事で指摘したとおり、当の日本人研究者はそもそも中国の大学から給与を受け取っておらず、研究分野としても軍事から遠い、さらに言えば中国の方が先行している分野だ。実態とかけ離れた記事であると言わざるを得ない。

 この記事がのちの記事の根拠にも使われている。この記事の監修役だという読売新聞の幹部の一人は他媒体記事(米国が「経済安保」に本気で取り組むワケ 求められる日本の「覚悟」)でも「日本の大学の退職時を大きく上回る報酬」「男性の技術も「応用すれば、無人機を使って自爆攻撃を行うことができる」(本人談)と書き、軍事転用されることは間違いない」(いずれも原文ママ)などと当該の日本人研究者を紹介している。

 しかし当該記事で言及されている日本人研究者によると、自身の研究はドローンとは関係がなく、さらにこの記事をみてもそもそも自分のことが書いてある記事とすら思えなかったという。これでは「発言捏造」と言っても過言ではない。

 安全保障が大切なのは言うまでもない。だが、それを懸念するあまり、実際にそういった懸念の対象から遠いケースの日本人研究者を無理やり記事の方向性にあてはめ、「事実誤認」「発言捏造」まがいのことをするのは、「社会の公器」である新聞社としてふさわしい行為だろうか。

 読売新聞の内部からも「最近はこういう取材をする記者は減ったと思うのですが…」というような嘆きの声が聞かれている。

 また、この記事に限らず、読売新聞の千人計画特集では「AI」分野を流出の懸念として繰り返し挙げている。だが、NeurIPSといったAI分野のトップカンファレンスの発表採択数等からも明らかなように、AI分野は日本が中国にもっとも差をつけられている分野の1つである。

誰がNeurIPS 2020でAI研究を先導しているのか?リーディングAIカンファレンスの考察とAI研究ランキング

 日本の強み、弱みを理解せず、的外れな「流出警戒」をしているようでは、日本の安全保障はむしろ危ういのではないだろうか。

「意図を伏せての取材依頼」「取材を断った途端、犯罪者扱い」

 別の在中日本人研究者は、昨年の秋の学術会議問題に関連して千人計画が話題になった直後、読売新聞から取材依頼メールを受け取った。

 私もそのメールをみせてもらったが、メール内容は「千人計画についての週刊誌のセンセーショナルな報道を正したい」という取材の方向性を思わせる内容を述べており、前述の事実と異なる「高給引き抜きされた軍事スパイ」扱いした記事を出していることには一切言及されていなかった。

 この事実誤認の5月の記事の件を知っていたその研究者は、取材依頼を断ったところ、「弊紙が取材上知り得た情報の何を記事にするのかや、私以外の記者や所属している部署以外のことを含めた読売新聞全体に関するご注文について、私がお約束できることはありません。私たちは紙面化する価値がありその裏付けが十分取れれば記事にしますし、紙面化する価値がないあるいは裏付けが取れていない話は記事にしません」(原文ママ)という返事が来たという。

 取材を断った場合でも場合によっては記事で取り上げる可能性を示唆するものだ。報道関係者によれば、この文面は「不正に関する調査報道のときの扱い」だという。

 この日本人研究者の研究分野も軍事から遠く、「軍事スパイ」扱いするには無理がある。研究成果も、軍事機密などではなく、論文として世界に広く公開共有されているという。

 また、高給なども受け取っておらず、中国への異動に伴いむしろ給与は減っているという。そもそも他の日本人基礎研究者と同様、日本で職を探したが、見つからなかったため、中国に来たとのことだ。

 こうした研究者を犯罪者扱いすることは報道機関として適正なことなのだろうか。

 実際、5月の「軍事スパイ」扱い記事の件のことを知らずに、取材を受けてしまった別の日本人基礎研究者は、掲載された記事をみて大きくショックを受け、読売新聞の何が何でも軍事に結び付けようとする姿勢に対し、取材を受けたことを後悔している様子だ。

インタビュー内容とズレた記事見出し

 私の3月末の記事発表後も、読売新聞は「千人計画」特集を続けている。たとえば、下記の記事では、日本国内の様々な識者から取材を試みている。

[論点スペシャル]先端技術 海外流出を防ぐ

 その中の一人に生命科学系の財団理事長の某氏の名前もあった。元文科省ということもあり、中国の科学技術政策への造詣も深い方である。インタビューを読むと、「千人計画」が海外に渡った中国人留学生・研究者を中国国内に呼び戻すための政策であることに触れており、中国の科学技術予算の伸長といった点にも触れている。

 しかし、記事の見出しは、「千人計画」侮らず監視となっていた。見出しと実際の内容に大きなずれがあるのだ。千人計画を軍事技術流出に結び付けようとするあまり、記事の見出しと実際の内容の間に大きなズレがある記事は、このほかにも読売新聞の「千人計画」関連記事では多くみられる。

 つまり、強引な形であったとしても、あくまで「千人計画」は先端技術を盗むものであるという前提を変えることがない記事の掲載を続けており、一面トップを飾ったものも少なくない。

「背景には政府の意向」「新聞協会賞を狙う」「書籍化予定」

 なぜこのような特集を繰り返し続けているのだろうか。内部からもれ聞こえたのは「政府の一部の安全保障重視の意向」という声である。

 大手メディアが政府の一部の意向に沿って記事を書くというようなことがあるとは、部外者の私には信じがたい。それでは報道機関ではなく広報機関と名乗るべきだろう。

 仮にそうであったとしても、安全保障から遠い分野の研究者を軍事関連技術に強引に結び付けて記事でとりあげるという姿勢はいかがなものであろうか。的外れな特集は安全保障にむしろ悪影響であろうことは前回記事で述べたとおりだ。

 また、「この特集で新聞協会賞を狙っているようだ」という声もあった。日本新聞協会の新聞協会賞といえば、これまでに様々な優れた報道を表彰している権威ある賞である。

新聞協会賞は新聞全体の信用と権威を高める活動を促進するため1957年に設けられました。

編集、技術、経営・業務の3分野で顕著な功績をあげた新聞人を顕彰しています。

一般社団法人日本新聞協会

 これまでに述べてきたような多数の問題を抱えた特集が、こうした映えある賞に値するだろうか。

 さらには、記者から「千人計画特集の書籍化予定」について一方的に告げられた日本人研究者もいたという。取材された内容の記事化には同意していたものの、実際の記事をみてみると「軍事スパイ扱い」という「騙し打ち」的な取材姿勢によりショックを受けた研究者も少なくない。

 書籍化については、「書籍化する」という「お知らせ」のみであり、書籍化したときに自身が取り上げられることを同意するかどうかについては一切聞かれなかったという。「騙し打ち」出版とでも言いたくなる。

科学部の力を活用すべき

 繰り返しになるが、安全保障が大切なのは言うまでもない。しかしながら、そのために軍事から遠い分野の研究者を無理やり「軍事関連技術流出」案件に仕立て上げ、的外れな「安全保障対策」に労を費やすことは、本来守るべき先端機密技術の流出への関心を逸らし、安全保障にも悪影響であろう。

 中国の研究レベルの高さを指摘すると、中国を擁護するのか、と批判を受ける。しかし、中国を脅威であると認識すればこそ、「敵を知り、己を知る」ことが重要ではないのか。

 一部メディアが中国の日本人研究者へ不誠実な取材を続けるようであれば、彼らも今後は日本のメディアからの取材を受けることはなくなるであろう。こうなれば、中国の科学・技術についての正確な実態を知ることが出来なくなる。

 また、「日本の科学・技術の方が中国よりずっと進んでいる」という「日本スゴイ幻想」を振り撒き続けているようでは、日本の基礎科学の危機的状況から目をそらすことにもなる。読売新聞の千人計画特集は「敵を知り、己を知る」からは程遠いものと言わざるを得ない。「鬼畜米英」で「敵」を過小評価してしまった先の大戦から何も学んでいないのだろうか。

 結局、実質的な効果の乏しいターゲットを叩くのは「やってる感」を示すことでしかない。

 読売新聞の千人計画特集の大きな問題点として、科学・技術がトピックの中心である特集にもかかわらず、科学部の関与がみえない点である。だからこそ、「中国より日本のAI技術がずっと進んでいるという前提」や「自動車のタイヤは回転するから中国の核開発に応用される危険がある」といったような的外れな記事を出す結果となり、真に憂うべき「日本の基礎科学の惨状」がスルーされることとなっている。

 以前の記事で述べたように読売新聞の科学部には優れた記者が多数いる。そういった記者らが関与していれば、このような事態にはならなかったはずである。ぜひ科学部の知見や経験を活用してほしい。

 私は記事を書いた直後の4月から、読売新聞を購読している(他紙も購読中)。毎日紙面を読むのを楽しみにしている。読売新聞の今後に期待したい。

病理専門医&科学・医療ジャーナリスト

1971年横浜生まれ。神奈川県立柏陽高校出身。東京大学理学部生物学科動物学専攻卒業後、大学院博士課程まで進学したが、研究者としての将来に不安を感じ、一念発起し神戸大学医学部に学士編入学。卒業後病理医になる。一般社団法人科学・政策と社会研究室(カセイケン)代表理事。フリーの病理医として働くと同時に、フリーの科学・医療ジャーナリストとして若手研究者のキャリア問題や研究不正、科学技術政策に関する記事の執筆等を行っている。「博士漂流時代」(ディスカヴァー)にて科学ジャーナリスト賞2011受賞。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。近著は「病理医が明かす 死因のホント」(日経プレミアシリーズ)。

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