【深掘り「鎌倉殿の13人」】ますます立場が重要となった北条政子は、情熱的な女性だったのか
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7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、北条政子について考えることにしよう。
■北条政子と頼朝の結婚
保元2年(1157)、北条政子は時政の娘として誕生した。治承元年(1177)、政子は当時伊豆に流人として流されていた源頼朝と結ばれた。父の時政が京都の大番役を務めており、不在のときの出来事だった。
時政は平家の威勢を恐れ、2人の結婚に反対したので、半ば駆け落ち同然での結婚だったという。政子は暗闇の風雨の中、頼朝のもとに向かったというが、いささか創作臭がする(『吾妻鏡』)。『吾妻鏡』の成立は北条氏が関与したので、政子を情熱的な女性に仕立て上げたのだろう。
治承4年(1180)、頼朝は打倒平氏の兵を挙げるが、石橋山の戦いで敗北。雌伏の期間を経て、頼朝は鎌倉へと入った。長男・頼家が誕生したのは、2年後のことである。
寿永2年(1183)、娘の大姫は木曽義仲の長男・義高と結婚した。ところが、元暦元年(1184)、頼朝は義仲を滅亡に追い込んだ。頼朝は義高を討つよう堀親家に命じ、親家の郎党・藤内光澄が義高を斬った。ショックを受けた大姫は、病になった。
激怒した政子は頼朝に対し、光澄を討つよう強く迫った。頼朝は政子の意向を無視できず、光澄を斬るよう命じた。政子の強い影響力をうかがい知る逸話である。
■頼朝死後の政子
その後、頼朝は平家を滅亡に追い込むと、征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府を作り上げた。しかし、建久10年(1199)1月、頼朝は不幸にも落馬して、そのままこの世を去った(頼朝の死因は諸説あり)。頼朝の跡を継いだのが頼家である。
頼朝の死後、幕府を支えたのが政子である。政子は出家して、尼御台と呼ばれるようになった。13人の御家人に対して、頼家を補佐するよう命じたのは政子だった。むろん、自らも頼家を補佐し、幕府の安泰に努めたのである。
しかし、頼家は失政が目立ち、人の上に立つ器ではなかった。建仁3年(1203)には、頼家の外戚だった比企能員を討伐。政子は愛する我が子の頼家に出家を命じ、伊豆の修善寺(静岡県伊豆市)に幽閉したのである。
■まとめ
政子に関する逸話(頼朝との結婚など)は、その情熱振りが伝わるものが多い。しかし、やや誇張があると考えられる点もあり、素直に首肯できない面もある。
ただ、頼朝死後の政子は、頼家あるいは実朝の後見として、大いに威勢を振るった。以後の政子については、追々取り上げることにしよう。