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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家が驚倒した、土御門通親暗殺未遂事件の全貌とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼家も驚いた土御門通親暗殺未遂事件とは。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の27回目では、土御門通親暗殺未遂事件の模様が描かれていた。しかし、同事件を詳しく取り上げていなかったので、詳しく掘り下げてみよう。

■土御門通親とは

 久安5年(1149)、土御門通親は雅通の子として誕生した。通親は花山院忠雅の娘を娶っていたが、のちに平教盛の娘を妻とし、平家を足掛かりにして台頭した。

 寿永2年(1183)に木曽義仲が入京し、平家が都落ちすると、通親は高倉範子(後鳥羽天皇の乳母)を妻に迎え、後白河法皇に急接近した。非常に変わり身が早い人物だったのだ。こうして通親は、朝廷内に九条兼実に匹敵する地位を得たのである。

 その後、通親は源頼朝とも通じ、後鳥羽に皇子が誕生すると、権勢をほしいままにした。建久7年(1196)、通親は兼実を失脚に追い込み、ついに朝廷の掌握に成功したのである。

■土御門通親暗殺未遂事件

 建久10年(1199)1月、頼朝が死去すると、急に通親の身辺は慌ただしくなった。というのも、世情が急速に不穏な空気に包まれ、通親が暗殺されるとの風聞が流れたのである。

 通親は院御所に立て籠もり避難し、警戒態勢を強めたが、首謀者などは明らかではなかった。やがて、源隆保なる人物が中心人物であるとされ、後藤基清・中原政経・小野義成の3人が捕縛された。このとき文覚も捕らえられ、西園寺公経・持明院保家は出仕を止められた。

 幕府は事件の解決に協力すべく、中原親能を京都に派遣した。その結果、文覚は佐渡、隆保は土佐にそれぞれ流罪となり、基清は讃岐国守護職を取り上げられた。中原政経・小野義成の処分内容は、不明である。

 実は事件の背景には人間関係が関与したと考えられ、公経が一条能保の娘婿、保家が能保の従兄弟で猶子、隆保が能保から左馬頭に登用された人物とされている。また、基清らは能保の郎党だった。つまり、捕らえられたのは、京都守護を務めたことがある能保の関係者だった。

 なお、能保の妻は源義朝(頼朝の父)の娘の坊門姫だった。こうした関係によって、能保は頼朝に重用され、京都守護に任じられたのである。

■むすび

 能保は建久8年(1197)10月」に、子の高能はその翌年9月に亡くなっていた。おまけに、建久10年(1199)1月に一条家の庇護者だった頼朝が亡くなり、一条家の関係者は危機感を抱いていた。

 そこで、一条家は通親を暗殺し、台頭の機会をうかがったという。通親は幕府の支援のもと、不満分子をあぶりだし、処罰することでいっそう権勢を増した。一方、文覚と隆保は早々に許され、一条家の人々も院近臣に登用された。何とも不可思議な事件だったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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