【九州三国志】古麓城と南北朝時代の八代!南朝勢力の拠点と古麓城の役割を探る
古麓城は、現在の熊本県八代市に位置しており、球磨川の河口近くにある自然の地形を活かした山城です。
この地は、背後に山を控え、北には春光川、南には球磨川が流れる三角形状の地形に囲まれています。
これにより、外部からの侵入を防ぎつつ、交通の要衝としての機能を果たしました。
中世の八代は、港町「徳淵津(とくぶちのつ)」を中心に、南九州最大の都市として発展しました。
日明貿易も行われ、人口は約5万人に達したとされています。
港町、城下町、そして妙見宮の門前町が融合した八代は、南朝勢力にとって政治的・経済的な要所でした。
古麓城が築かれたのは建武2年(1335年)のことです。
名和長年の子である名和義高が地頭に任じられたのち、一族の内河義真がこの地に城を築きました。
当初、この城は「内河の城」と呼ばれ、南朝の重要拠点として機能しました。
延元元年(1336年)の多々良浜の戦い後、南朝勢力は菊池城や古麓城を失いましたが、菊池武重がこれを奪還。
懐良親王が当地に移り住み、八代に「高田御所」を構えたことで、八代は征西府の新たな中心地となりました。
この時期、八代近辺では南朝方の名和氏と北朝方の相良氏が激しく争い、城は幾度も攻防を繰り返したのです。
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では北朝勢力が一時的に分裂しましたが、その後、南朝勢力は再び八代に勢力を集中させました。
特に正平13年(1358年)以降、名和顕興が八代を本拠地とすることで、南朝の九州支配を支え続けたのです。
しかし、今川了俊の台頭により南朝方は次第に追い詰められ、八代もその影響を受けます。
元中8年(1391年)、今川了俊の息子貞臣が古麓城を包囲。
これにより南朝勢力は決定的な打撃を受け、良成親王は筑後国八女郡へ落ち延びました。
この時期以降、九州における南北朝の戦いは形を変え、戦乱の時代が続くことになります。
戦国時代初期には、相良氏が八代への進出を試みるものの、名和氏との抗争が続きました。
しかし、15世紀後半には相良長続が勢力を拡大し、最終的に古麓城を手中に収めます。
この結果、八代は相良氏の支配下で新たな時代を迎えることとなりました。
現在、古麓城の跡地には城下町の名残はほとんどありません。
江戸時代以降に八代の中心地が干拓地に移ったことで、古麓の景観は大きく変わりました。
しかし、懐良親王の御陵や石碑など、当時の面影を伝える遺構がわずかに残っています。
古麓城は、南北朝時代の九州における激動の歴史を物語る重要な遺跡です。
その地理的特性と戦略的役割は、南朝勢力がいかにこの地を拠点として抗争を続けたかを示しています。
当時の八代が九州全体に与えた影響は、単なる地方史を超えた意義を持ち、現代においても歴史的な研究対象として注目されています。
南北朝時代の象徴である古麓城。
その存在は、地域の歴史を語る上で欠かせない重要なピースと言えるでしょう。
歴史の舞台としての古麓城に思いを馳せながら、その背景に秘められた物語を今後も掘り下げていくことが求められます。