ムハンマド風刺画がテロを触発 昨年フランスで起きた事件と表現の自由について考える
「メディア展望」(新聞通信調査会発行)12月号の筆者記事に補足しました。
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宗教をめぐる表現の自由について、私たちはどう考えたらいいのだろうか。
昨年10月中旬、フランスのパリ近郊でイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を授業で紹介した中学校の教師サミュエル・パティさんが首を切断されて殺害され、フランス内外に大きな衝撃が走った。
実行犯はロシア南部チェチェン共和国出身のイスラム教過激派の男性(現場で警官に射殺)で、風刺画に立腹して殺害に及んだという。イスラム教は偶像崇拝を禁じ、ムハンマドを描くことを禁忌とする。
「またこのような事件が起きてしまった」。
そんな思いを持ったのは、筆者だけではないだろう。
「また」というのは、2015年1月、ムハンマドの風刺画を掲載した風刺雑誌「シャルリエブド」の本社(パリ)がイスラム過激派の影響を受けた移民家庭出身の若者たちに襲撃され、風刺画家を含む12人を殺害した事件があったからだ。
さらにさかのぼれば、2006年、デンマークの新聞ユランズ・ポステンが前年に掲載したムハンマドの風刺画が世界的に大きな波紋を呼んだ。同紙が襲撃される事態は起きなかったものの、イスラム諸国の政府及び国民の間で大規模な抗議運動が発生した。
その2年前にはオランダ・アムステルダムでイスラム教を批判していた映画監督がイスラム教徒の若い男性に白昼射殺される事件が起きた。
欧州社会の中で、イスラム教を批判するあるいはムハンマドを侮辱するような表現行為をした人やこのような表現を紹介した人が「過激派」とされるイスラム教徒の男性によって攻撃される事態が繰り返し発生している。
こうした事態に対して、発生国の多くの市民が抗議の意を示し、犠牲者の追悼集会が開かれてきた。
2015年のシャルリエブドの襲撃事件後は世界各地で市民らが「私はシャルリ(英語名でチャーリー)」というプラカードを掲げて連帯を表明し、先の教師パティさんの殺害後は「私は教師」という追悼メッセージが広がった。
パティさんにはレジオン・ドヌール勲章が与えられ、10月21日の国葬ではマクロン大統領が「パティさんはフランス共和国の顔、自由の顔になった」と称えた。「表現の自由」で認められている風刺画を「止めることはない」、「私たちは自由のための戦いを続ける」と宣言した。パティさん殺害以前から、マクロン大統領は「フランスは宗教冒とくが認められる国」として、ムハンマドの風刺画を出版する権利を擁護してきた。
これに対し、イスラム圏の50カ国以上が参加する「イスラム協力機構」(OIC)は、「表現の自由を名目に宗教の冒とくに基づく嫌がらせを正当化するべきでない」とする声明文を発表した。一部の国ではフランスの製品の不買運動も発生した。
表現行為に対する暴力やテロは許されないものの、表現の自由を巡る問題を私たちはどう考えたら良いのだろうか。
フランスの表現の自由
政教分離が国是のフランスでは、1789年、フランス革命後に人権宣言で採択された「表現の自由」は最も基本的な権利だ。
王政と一体化していたカトリック教会の巨大な権力を政治から排除すること、批判し、笑うこと。これこそが共和国。これをなくしては共和国自体が成り立たない」(パリ政治学院のファブリス・イペルボワン教授談、2015年)。
1881年に冒とく罪を廃止し、宗教を批判したりその象徴を傷つけたりしても罰せられない。ただし、信者個人に対する中傷や侮辱は許されない。
教授はフランス式の表現の自由には特徴があるという。世界共通の価値観では「自由な表現が許されると同時に社会を構成する個人が気持ち良く生きることが考慮される。神の冒とくはいけない。信仰を持つ隣人を傷つけることになるからだ」。フランス式の言論の自由とは、「隣人への考慮をしない考え方だ」。
このような「表現の自由」の考え方は時としてイスラム教自体への批判、イスラム教徒市民への攻撃という意味にとられる場合がある。マクロン大統領は複数の海外メディアに登場し、シャルリエブドの風刺画そのものを支持したのではない、問題はテロを行うイスラム過激主義であると説明せざるを得なくなった。
しかし、仏政権がイスラム教を抑圧しようとしているという疑念は消えていない。
パティさんの事件発生前の10月上旬、マクロン大統領はイスラム過激派対策の法案作りを進めていることを発表している。国家の法律を軽視して独自のルールを優先する「イスラム分離主義と戦う」ことを訴え、「イスラム教は今日、世界中で危機的状況にある」とも述べた。法案には過激化を防ぐために国内でのイスラム教指導者の養成や過激派が運営する学校や自宅学習の禁止などが盛り込まれた。
欧州の「私たち」とは
十数年前のデンマーク風刺画事件では表現の自由についての論争が拡大する中、宗教も風刺対象とするのが「私たちの文化だ」とドイツの大手紙の編集長が英国のテレビ番組の中で語っていた。パティさん殺害ではマクロン大統領が「私たちは自由のための戦いを続ける」と述べたが、ここでも「私たち」という主語が出てくる。
欧州に住むイスラム教徒は総人口の約5%(2016年、米ピュー・リサーチ・センター調べ)だが、フランス(8.8%)、オランダ(7.1%)、英国(6.3%)、ドイツ(6.1%)では平均以上になる。経済移民として欧州にやってきた最初の世代から、第2、第3世代が生まれている。欧州の「私たち」の構成員の中にイスラム教徒も入っていいる。
2016年、筆者はアルジェリア移民の第2世代でパリ郊外サン・ドニの市会議員となった男性に話を聞いた。「イスラム教も風刺や批判の対象になるべき」と言いつつも、「ムハンマドの風刺画には傷ついた」と語っていた姿が忘れられない。
問題とされた風刺画の1つが、ムハンマドが裸で四つん這いになりこちらを向いている姿だったと聞いた後では、筆者自身も衝撃を受けた。
ウェブサイト「カウンターポイント」のディレクターでフランスとカナダの二重国籍を持つキャサリン・フィエスキ氏はマクロン政権の課題について英ガーディアン紙(11月6日付)に寄稿した。
フランス社会が機能するには、国家の宗教的中立性・無宗教性および個人の信教の自由を保障する政教分離の原則(「ライシテ」)を「共和国の価値だからという決まり文句や社会への帰属を測るテストとして使う」やり方ではうまくいかないと指摘する。多くのイスラム教徒の市民(特に若者層)はライシテがどのような意味を持つのかを理解しておらず、まずは説明のための第一歩を踏み出すことが必要なのだ、と。
どう考えるべき?
フランスの風刺画事件とマクロン大統領の反応については、たくさんの記事が書かれてきた。
私たち=欧州人でもイスラム教徒でもない場合=は、どういう立場を取ればいいのだろうか。
筆者自身は、表現の自由を絶対視する見方には賛同しない。
というのも、今回の風刺表現は社会の弱者に向けられているように思うからだ。イスラム教徒は世界中に多数いるが、欧州では少数派になる。少数派を傷つける表現をして、何が達成されるのだろう?風刺画は強者・権威を風刺するという目的があったはずだ。
英タイムズの風刺画家の見方
英タイムズ紙の政治風刺画家ピーター・ブルックスが、ポッドキャスト「ストーリーズ・オブ・アワ・タイムズ」(2020年12月31日配信)の中でムハンマドの風刺画問題についてどう思うかを聞かれた(20:30あたりから2分間ほどの部分)。
ブルックスは「挑発するための挑発に賛同しない」という。
「自分は誰かを侮辱するために、例えば、黒人やユダヤ人を侮辱するために風刺画を描かない。だからイスラム教徒の人を侮辱するための風刺画も描かない」、「少数民族の人種を侮辱する風刺画はやらない。描きたいという気持ちを刺激しない」。
誰かを侮辱してしまうことを恐れているのかと聞かれ、「誰かを侮辱してもかまわないと思う。ただ、自分は侮辱することを目的としては描かない」
「風刺画家は侮辱するかどうかを気にせずに描くべきだという考えがある。98%は同意する・・・ただ自分は、人種差別的攻撃はしない」。
筆者自身は風刺画家ブルックスの姿勢に賛同するのだが、皆さんはどう思われるだろうか。
筆者は2005年にオランダ、06年と07年にデンマーク、その後はフランス、ベルギーなどで「欧州に住むイスラム教徒」、「風刺画」、「表現の自由」、そして時には「イスラムテロ」をテーマに取材を続けてきた。「表現の自由の厳守」というだけでは摩擦は収まらないと考えている。
まだまだ議論は続きそうだ。
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欧州の表現の自由とイスラム教について、関心のある方へ
デンマークの風刺画事件(2006年)について、当時、現地で取材をしています。これを07年、ブログにまとめて掲載しました。よろしかったらご覧ください。