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【光る君へ】賀茂祭を見学した際、石を投げつけられた藤原道綱・道長兄弟。その理由とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
葵祭。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、凡庸な印象を受ける藤原道綱。たしかに、弟の道長に昇進面で後れを取るのだから、実際にそうだったのかもしれない。史料からも優秀でなかった様子がうかがえる。

 実は、道綱と道長が賀茂祭(葵祭)を見学していた際、石を投げつけられたという事件があったので、紹介することにしよう。

 賀茂祭とは葵祭のことで、旧暦4月の2度の酉の日に催された。京都の三大祭りの1つでもある(ほかは時代祭、祇園祭)。この日、朝廷は上賀茂神社(賀茂別雷社)、下鴨神社(賀茂御祖社)に祭使を遣わした。その行列の見学は、公家のみならず、庶民にとっても大きな楽しみだった。

 永延元年(987)4月17日、道綱は弟の道長とともに祭使の行列を見学するため、牛車に乗って出掛けた。しかし、道綱らの一行が出掛けると、すでにお目当ての場所には右大臣の藤原為光の一行が先着していた。為光は師輔の九男で、兼家(道綱、道長の父)の弟でもあった。

 仕方がなかったので、道綱らの一行はほかの場所を探そうとして、牛車を移動した。その際、為光が乗る牛車の前を通ろうとしたのである。その瞬間、為光が引き連れていた従者が足元の石を拾い、道綱らが乗る牛車に投げつけてきたのである。

 あまりに突然のことだったので、驚いた道綱らは逃げるしかなかった。断りもなく、身分が上の為光の牛車の前を横切ったのがいけなかったのだろうか。また、祭りだったので従者は酒を飲んでいた可能性もあり、その勢いで無礼を働いたことも考えられる。

 かつて、為光は兼家と激しい出世争いをしていた。為光は異母兄の伊尹、兼通から気に入られており、貞元2年(977)には従二位・大納言に叙位・任官され、兄の兼家よりも高い地位に就いた。

 兼家は兼通から嫌われていたので、このような処遇になったのだろう。しかし、兼通の死後、兼家は右大臣に就任し為光の地位を越えた。2人の兄弟は、熾烈な出世競争をしていたのである。

 為光は娘の忯子を花山天皇に入内させ、挽回を狙ったが、忯子は早くして亡くなった。花山天皇の出家後、一条天皇が即したので、外祖父の兼家は摂政の座に就いた。

 その際、兼家はライバルの左大臣・源雅信を牽制するため、為光を右大臣に就けたのである。その結果、為光は兼家に従わざるを得なくなった。

 そもそも為光は兼家をライバル視し、激しい出世競争を展開していた。その目論見が外れ、あまり兼家のことを快く思っていなかったのだろうか。道綱らの牛車に石を投げつけるよう命じたのは、意外にも為光だったかもしれない。

主要参考文献

繁田信一『殴り合う貴族たち』(文春文庫、2018年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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