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「市川團十郎家」はなぜ特別な存在になったのか

堀越一寿歌舞伎大向う
東京五輪開会式で「歌舞伎十八番のうち暫」の鎌倉権五郎を演じる市川海老蔵(写真:ロイター/アフロ)

こんにちは。堀越です。

歌舞伎の舞台で役者に掛かる「成田屋!」などの掛け声や、それをする常連客のことを大向うと呼びます。私が大向うを始めて25年余りですが、その経験を活かしながら歌舞伎の魅力や楽しみ方をわかりやすくお伝えしていきたいと思っています。

さて、今回は歌舞伎の世界で「市川團十郎」は特別に大きな名前だとされるのはなぜか、というお話をしようと思います。

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團十郎家は「市川宗家(そうけ)」と呼ばれる。普通に理解すれば市川家をたばねる総領という意味になるのだが、「市川宗家」と呼ぶ時、単に市川家ではなく「江戸歌舞伎の宗家」という、より大きな存在を指していると感じるのではないだろうか。実際、歌舞伎の世界においては市川家以外に「宗家」という言葉が用いられることは、ゼロではないにせよ稀なことだ。

◆ 江戸っ子の気性に荒事はピッタリ

團十郎家の特殊性を説明する要素のひとつは初代團十郎が荒事(あらごと)を創始したことにあるだろう。荒事というのは超人的・神秘的な力を宿した主人公が、強大な悪の権力者たちを薙ぎ倒してゆくようなシンプルな構造の物語が多い。

この簡潔で力強い團十郎の創造が江戸っ子に愛された背景にはその土地柄がある。

江戸時代の日本橋
江戸時代の日本橋提供:アフロ

江戸は徳川家康が作った新興都市だ。

もともと関東は大阪や京都などの商業・文化都市に比較して気性が荒い地域だと言われていた。そして江戸では頻繁に土木工事が行われた。例えば現在の歌舞伎座がある木挽町(こびきちょう)は材木の加工をする木挽き職人たちが軒を連ねた地域だという。こうして肉体労働者が多く集まったことで、江戸の町には気風の荒い風土が育まれていった。そうした事情を反映してか、男女比においても江戸は男が多い都市であったと言われる。

「火事と喧嘩は江戸の華」「宵越しの銭は持たぬ」などの言葉が生まれたくらいだ。江戸っ子は喧嘩っ早く、しかしパッと花火のように燃えた後は何もなかったようにケロっとしているようなところがある。そんな江戸っ子たちの気性に、團十郎が演じた荒事の豪快さ、明快さは相性ピッタリだったのだ。

◆初代團十郎、大名屋敷で大暴れ

初代市川團十郎イメージ(模写イラスト:堀越一寿)
初代市川團十郎イメージ(模写イラスト:堀越一寿)

初代團十郎の、こんな逸話が残されている。

ある大名屋敷へ招かれ、殿様から「荒事というのを見てみたい」と頼まれた團十郎。悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)を演じながら、なんと書院の障子を破って見せたうえで「これが荒事でございます」と返答したという。

その時を振り返り團十郎は『大名の前に出た程度で気おくれしてしまうようでは荒事とは言えません』と言い残している。当時において、社会的には圧倒的に身分の低い歌舞伎役者の團十郎が、大名を向こうに回して一歩も引かない姿はまさに痛快な荒事のヒーロー像そのものだ。

さらに「團十郎伝説」を補強しているのが成田山不動尊との関係だ。初代團十郎はなかなか子供に恵まれず、成田山の薬師堂で祈願して待望の長男を授かった。その感謝のしるしとして初代は自ら不動明王を演じて大当たりを取る。不動明王は忿怒の姿をして救い難い者までも力づくで救うという仏神だから荒事との親和性は言うまでもない。こうした縁がきっかけとなって團十郎家の屋号も「成田屋」になったわけだ。

成田山新勝寺
成田山新勝寺写真:イメージマート

こうした、もはや「團十郎神話」と呼びたくなるようなエピソードの積み重ねによって、團十郎という名前が他とは異なる特別な存在に転じていったことは想像に難くない。

「團十郎に睨んでもらうと一年間無病息災」や「難破船の船員が外国に流れ着いたら、現地民の神棚に團十郎の錦絵が本尊として飾られていた」などはもはや信仰に近い逸話で、このような庶民の思いを背負った名前は他には見当たらない。

◆名優が続々と登場

また、歴代の團十郎がそれぞれ名優として歌舞伎史に名を刻んでいることも無関係ではないだろう(ただし三代、六代は早世し、八代は超絶ともいう人気だったが三十二才の若さで自死)。

二代目は現在も人気の演目「助六由縁江戸桜」を初演したり、初代が生み出した隈取の化粧をさらに洗練させ完成させたりしたと言われる。また、歌舞伎界存亡の危機を招いた「江島生島事件(大奥勤めの江島と歌舞伎役者生島新五郎のスキャンダル)」では、二代目團十郎が歌舞伎を救うために奔走したという説もある。

また、明治期に劇聖と賞賛された九代目は現代歌舞伎の基礎を築いた立役者である。特に役者の地位向上には多大なる貢献があり、天覧(天皇による観劇)を実現したのは歌舞伎の長い歴史で誰もなし得なかった快挙であった。没後百年以上を経てもなお「九代目」と言えば團十郎を指すのだから、その影響は計り知れない。

浅草にある九代目市川團十郎像(撮影と加工:堀越一寿)
浅草にある九代目市川團十郎像(撮影と加工:堀越一寿)

そして十三代目襲名を控えた海老蔵の父、十二代目もまた、全てを包みこむような大きさ、太陽のような明るさで、初代から続く團十郎伝説が持つ神話性を信じさせてくれる存在であった。

これだけテクノロジーが進化した現代にあってなお、團十郎の名前には初代から続く超越的な存在としての「神話」が積み重なっているのだ。

歌舞伎大向う

東京生まれ。1997年より「音羽屋!「成田屋!」など俳優に声をかけて舞台を盛り上げる歌舞伎大向うとして故・十八代目中村勘三郎から信頼を得た。歌舞伎の面白さを多くの方に味わってもらいたいとの思いから講演や執筆を開始。テレビ、ラジオなどのメディア出演も多数。

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