最近のゲームはそのプレイが「考えさせる」ものになっている(が、人生同様にむなしい)…という本を読んだ
最近のゲームは、そのプレイが批評的なものになる。あるいは批評の対象になる。「考えさせる」ものになっている。
「考えさせる」と言っても、ゲームの効率的な攻略方法を考えるという意味ではない。
「自分の選択/行動はこれでよかったのか」とか「人生とは」とか「ゲーム的な手法ってそういうことに使われていいのか?」といったことを考えさせる。
主張を乱暴に要約すれば、そういうことになる本が出た。
限界研編『プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近』である。
本書は、主に20代~30代の批評家や小説家たちが、2010年代のゲーム、およびそのゲームプレイヤー/プレイ体験について論じたものだ。
たとえば一世を風靡した『なめこ栽培キット』や『ねこあつめ』がいわゆる「放置ゲー」の歴史においてどんな特徴があるのかとか、『PUBG』に代表される近年のバトルロイヤル方式のマルチプレイ対戦ゲームの問題点、あるいはVTuberの輝夜月が2つのゲーム/アプリを同時プレイする実況動画から「誰かを演じながらさらにゲーム中に何か別のものを演じる(プレイする)」というややこしい状態のおもしろさって一体なんなのかといったことが論じられていく。
ただし、「普通に遊んでおもしろい、王道の○○」(○○にはアクションやRPG、パズルゲームなどのジャンル名が入る)といったタイプのゲームは基本的には論じる対象にはなっていない。
だからパズドラやグラブル、チェンクロ、あるいはゼルダやFF、ドラクエなどはほぼ取り上げられていない。
本書の論者たちは「考えさせられる」(あるいは「この面白さって何?」と“考えてしまう”)ゲームや、ゲームプレイ、ゲーム的な仕掛けの社会への応用の興味深い事例を好んで取り上げる。
「作り手がプレイヤーに対して仕掛けるもの」としては「初見殺し」な仕掛けだらけのアクションゆえに何十回何百回とコンティニューを繰り返させる「死にゲー」のプレイ体験の喜びとは何かを問うた論考など。
「プレイヤーが作り手の意図を超えてするもの」としては、本来「待ち」で戦うべき『PUBG』で待てずに乱戦するプレイヤーが大量発生したために公式が乱戦しやすいマップを用意した事態を考察する論考や、いわゆる「縛りプレイ」について、あるいはMODやチートといった改造ツールの存在などを論じたものなど。
「ゲーム的な手法の社会利用」としては、ゲーム/ゲーマーと社会との関係について、近年ではUSのオルタナ右翼とゲーマーゲート事件との関係をはじめ、ゲームとポリコレ的な表現をめぐる事件、ゲーム的手法/ゲーミフィケーションの非リベラルな利用方法が目立つことに対して、ゲーマー/ゲーム業界/社会はどう向き合うかに関する論考など。
がある。
本書は、論じる対象をごく近年の「考えさせる」ゲーム/ゲームプレイに範囲を絞っている。
それにより、「今」この時代/瞬間に、考えをめぐらせたり、ゲームをめぐって誰かと議論したい気持ちをウズウズと起こさせるものになっている。
……と、まとめてみたが、こういう行儀のよいまとめをすべてぶち壊す論も載っているからおもしろい。
SF作家・草野原々による「デジタルゲームのむなしさと人生のむなしさ」という論考は、なかなかに狂っていて最高だ。
“脳科学が発展し、心の虚構性が顕わになった現在。我々は、冒頭に提示したような、徹夜でゲームをクリアしたがそれはまったく価値のないことであったと実感しているプレイヤーと同じような立場にいる。なお悪いことに、我々はゲームをやめることはできない。我々、つまり、心とはゲームのなかの虚構的キャラクターであるため、人生というゲームの内部に囚われている。外に出ることは原理的にできない。むなしさを抱えたまま、淡々と、いつまでもゲームをやり続けるしかないのだ。”(126pより)
「は? 何言ってんの?」と思いましたか? いやいや、そう言わず、全編読んでみてください。
こんなもんじゃないんですよ……