住宅で金融を科学しよう
住宅金融ほど、人間の生活と金融機能が密着したものはありません。それだけに、周辺に関連した大きな分野をもち、金融の社会的機能の分析にとっても、金融技法の検討にとっても、格好の分野というわけです。
住宅と金融の多様なかかわり
唐突に、おかしな問を発するわけですが、自分が所有する住宅から生活資金を発生させようと思ったら、どのような手法があり得るか。三つあると思います。第一が、貸して賃料を得る。第二が、住宅を担保に供して借金をする。第三が、売却して代金を得る。ここまでは簡単です。問題は、生活資金だけに、毎月の定期金にしたいわけです。貸して賃料を得る場合は、そもそも賃料が月極めでしょうから、わかりやすいですが、借金や売却の場合には、大いに工夫が要ります。
では、住宅を所有していない人が、住宅に住もうとしたら、どのような手法があり得るか。第一が、借りて賃料を払う。第二が、借金をして住宅を取得する。これも、住宅費は生活費の中心ですから、毎月の所得のなかで、無理なく負担できることが基本です。故に、住宅を取得するための融資契約は、元利均等で毎月弁済していく方式が主流となるわけです。
以上で、生活と住宅金融とのかかわりの領域全体をとらえたと思います。論点は、どのような手法を用いようとも、同じ住宅については、そこから創出される現金の理論的価値は等価でなければならないということであり、そこに住むための費用の理論的価値も等価でなければならないということです。さらにいえば、ある住宅から創出される将来の現金の現在価値と、その同じ住宅に住むための将来の費用の現在価値とは、等価であろうということです。
金融理論の核の等価性の体系
この等価性の体系こそが、金融理論を支える効率性仮説の要諦です。これは、住宅金融についてのみ成り立つのではなくて、全ての企業金融や事業金融についても成り立つ理論です。例えば、ある事業資産について、その資産を借りて賃料を払うことと、取得資金を借りて所有して金利を払うこととの間には、等価性がなくてはならないのです。要は、一物一価の原則に従って、一つの同じ資産については、背後の金融的な手当ての違いにかかわらず、理論的な利用費用は同じになるはずだということです。
もっとも、難しいのは、等価性は条件の違いを調整したうえでのことですから、表面的には、等価ではないことです。問題は、条件の違いです。どのように条件を違えるべきかを決するためには、実は、条件の違いを調整した時の等価性を前提にする必要があります。これが、金融取引の条件、あるいは広く経済取引の条件の理論的基礎付けの根幹です。
しかし、これは、あまりにも超難解かつ超簡潔な要約です。わかりやすい例として、住宅を借りて毎月家賃を払うことと、住宅を借金で買って毎月弁済することとの、理論的な等価性を考えましょう。
借りるべきか、買うべきか。住宅について、この問題の悩みをもった人は多いでしょう。実際、住宅販売の営業資料の典型的な話法は、借金をして買ったほうが、借りて賃料を払うよりも、長期的には得だ、という趣旨に帰着するのです。住宅金融の基本は、ある住宅について、借金をして買った場合の毎月の弁済金額が、借りた場合の毎月の家賃に対して、相対的に有利に設定できるか、あるいは有利にみえるように設定できるか、ここにかかっているのだと思われるのです。
しかしながら、住宅を貸すという賃貸事業と、住宅を作って売るという販売事業とは、住宅の供給という機能において競合するわけで、市場が十分に効率的である限り、一方が他方に対して著しく有利になる、あるいは不利になるということはあり得ないはずです。競合するということは、同一機能に対して、利用者の側で、不利なほうから有利なほうへ選好を変化させることを意味しているのですから、そのような利用者の行動が需給を調整させる、即ち、理論価格の均等性のほうへ住宅市場の構造が動いていくはずです。
市場の効率性
では、市場は十分に効率的でしょうか。持家に対する拘りなどの様々な非経済的事由が住宅市場にはあるのではないでしょうか。しかし、理論的には、そのような非経済的要素は、一種の外部的な条件なので、その条件を調整したところで、経済的等価性が成り立つのだと思われるのです。
例えば、賃貸の有利性として、自由な転居可能性がありますが、この自由な転居可能性という利便性は、経済的な価値として評価できて、その理論価格は賃貸料に織り込まれているはずなのです。もっとも、理屈上そこまではいえても、その理論値を具体的に算出することは難しそうですが。
また、持家選好というものがあるとすれば、その選好によって、賃貸に対して住宅取得の費用が割高になるはずだとはいえても、はたして、どれだけ割高になるかは、よくわかりませんし、実証も難しそうです。しかし、持家選好の強かった亡父に、持家選好など全くもたない自分を対比させるとき、消費者の選好の変化が住宅市場の構造に大きな影響を与えているだろうことは、私には疑い得ないのです。
こうした非経済的な選好も、何らかの仕方で、市場に織り込まれているはずで、そうだとすれば、何らかの方法で測定できていいはずです。少なくとも、市場の動態に影響のあることは、何らかの方法で、つまり、何らかの仮定をおくことで、理論的前提にできるはずだ、あるいは理論的前提としておくべきだ、とは思うのです。
難しい不確実性の評価
ところで、住宅金融には、大きな不確実性が付きまといます。住宅金融の利用者にとって、悩ましい問題は、変動金利を選ぶか固定金利を選ぶかという選択です。最終的にどちらが有利になるかは、将来の金利変動の不確実性に依存するわけです。
理論的には、変動金利型の現時点の金利と、固定金利型の金利との差は、市場における将来の金利変動の期待値を反映したものでなければなりません。固定金利が高いということは、将来的に金利が上昇していくという市場期待の反映ですから、金利の低い変動金利型が有利にみえるのは一種の錯覚で、将来的な金利上昇によって、最終的には、固定金利型と変動金利型の金利費用は同じになるはずだという期待が、そこにはあるのです。
もっとも、現実の世の中は、この期待仮説通りに動くとは限りません。おそらくは、期待に反するのです。そこに、予測的な思惑が働くわけで、人が悩むのは、この予測においてです。ところが、これも理論的な問題ですが、効率的な期待を超えた予測には、定義により科学的合理性がないのでしょうから、的中確率は五分五分でしょう。だとすると、主観確率分布が平均の上下に大きく振れているとしても、平均としての合理的期待値は変化し得ないということです。
また、より大きな不確実性は、将来の住宅価格の推移です。もしも価格の上昇期待をもつならば、賃貸は不利であって、多少無理をしてでも借金をして住宅取得するでしょう。これは、自明です。このような期待が支配的ならば、当然に、住宅価格は先行的に騰貴し始め、賃貸の相対的有利さを高めるはずです。
このようにして、住宅価格上昇期待のもとで、賃貸の条件と取得および住宅融資の条件との間の相対価値の均等性が成り立つのでなければなりません。そのうえで、実際の住宅価格が、期待値以上に騰貴するか、逆に期待値ほどに騰貴しないかは、確率五分五分の問題で、期待値自体は動かないはずです。
物価上昇期待と経済成長
余談ですが、このような合理的期待のもとでは、安倍政権が想定している物価上昇期待の経済効果は、必ずしも大きくないとも考えられます。住宅価格の変動について、期待の合理性を前提にすれば、というよりも理論的に前提にせざるを得ないのですが、将来の住宅価格の期待値は、分譲か賃貸かという供給形態に影響を与えるにしても、総供給量自体には中立であるように思われるからです。
ところが、自動車や家庭電化製品のような消費財の場合は、買うのが普通で、借りるのは稀ですから、物価上昇期待のあるほうが、消費は伸びそうですね。住宅についても、買った家に揃える家具と、借りた家に揃える家具とでは、多くの人が前者の場合における無駄使いをしそうですから、経済効果は、より大きそうです。まあ、今は安倍政権の政策を信じておきましょう。
そういった先から、懸念をいうのはおかしいですが、脱線ついでにいえば、生活必需品の多くは、食料や電気のように、保存がきかないですから、物価上昇期待のもとでも、買い置きは起きない、つまり、新たな需要を誘発しない。他方、生活必需品の価格上昇は、実質可処分所得を減少させるので、消費を減退させる効果があり得る。全体として、景気にはよくない。鍵は、賃金の上昇期待です。雇用の絶対量の増加と安定雇用について、国民の安心感が広がらないといけない。これも、安倍政権に期待するしかないですが。
理屈通りの米国住宅金融市場
それにしても、何となく、合理的期待というのは、胡散臭いと思われるかもしれない。世の中は、本当に理屈通りになっているのか。我ながら、確かにそう思うこともあります。もしかしたら、理論の怪しさがあるかもしれない。理論的に等価でなければ市場は成り立たないという前提から等価性を説明しても、説明にならないのかもしれない、そのような疑念を全くもたないわけでもない。まあ、難しい問題です。そこで、理論の有効性については、米国の住宅金融市場の例について検討してみると、おもしろいと思います。
もしも、固定金利型の住宅融資について、手数料なしで随時に借換えできるとしたら、金利が低下すれば、低金利での借り換えが加速するでしょう。米国は、そういう市場です。つまり、債務者にとっては、低金利で借換え可能という有利な権利、金融理論でいうオプションがあるわけです。
理論的には、何事も有料ですから、このオプションについても、債務者は対価を支払っているはずです。通常は、高めの金利という形で支払われているのです。こうして、借換え可能な住宅融資も、借換え不可能な融資も、オプション料を媒介にして、等価性が実現しているのです。また、原則として借換え不可能な住宅融資でも、手数料を支払うことで借換えが可能になるとしたら、その手数料の理論値も、この等価性から逆算できることになります。
米国の住宅金融市場では、借換えできる権利の価値、難しくいえば金利オプションの価格は、理論値に近いところで形成されていると考えられています。理論値の計測には、高度に数学的な手法を用いなくてはならないのですが、米国では、最高度の数学理論の実務への応用が、最も庶民生活に近い住宅金融市場で行われているのです。はなはだ興味あることです。
住宅金融市場の日米比較
日本の住宅融資市場は、どうなっているのか。私は不案内ですが、例えば、借換え手数料の実勢値は、理論値に近いところで決まっているのでしょうか。私見、というよりも個人的な感覚の問題ですが、何となく、日本では理論値との乖離が大きいような気がします。銀行の硬直的な手数料体系、融資能力過剰による過当な競争などが影響してはいないでしょうか。
市場で理論が働くかどうかは、いいかえれば、市場が効率かどうかということなのだと思います。効率性は、取引の自由度(規制の少なさ、というよりも合理的規制環境)と、参加者の感性(合理性というよりも、生活慣習における金融的思考の定着度)に依存するのでしょうから、米国と日本の住宅金融市場の構造の差は、興味深い考察対象かもしれません。
住宅金融の市場では、日本でも、英語というか米語が使われる場合があります。ホームエクイティローンとか、リバースモーゲージとか。やはり、概念自体を住宅金融先進国の米国から輸入しているからでしょうか。