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「どうする家康」織田信長が徳川家康の陣に鉄砲を放ち、出陣を促すことはあり得たのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
金の信長像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が徳川家康の陣に鉄砲を放ち、出陣を促すシーンがあった。今回は、そのシーンに妥当性があるのか、考えることにしよう。

 元亀元年(1570)6月、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍が姉川(滋賀県長浜市)で戦った(姉川の戦い)。ドラマでは、徳川家康が浅井長政からの密書で味方に誘われ、心が揺らいでいた。もちろんフィクションである。

 一方、織田信長は家康に先陣を命じていたので、家康が法螺貝の合図に応じず、いつまでたっても出撃しないので苛立っていた。そこで、信長は配下の者に命じて、家康の陣営に鉄砲を放つよう命じ出陣を促した。もちろん、こちらもフィクションである。

 信長が家康の陣営に鉄砲を撃ち込み、出陣を促したのは、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦において、家康が小早川秀秋の松尾山の陣営に行ったのと同じである(問鉄砲)。果たして、こういうことはあり得たのだろうか。

 最初、信長は家康の陣営に出陣の合図として、法螺貝を鳴らしていた。これは、十分にあり得る話である。当時、法螺貝や鐘は、合図として用いられていた。むろん、事前に確認する必要はあるが、法螺貝の吹き方によって合図(たとえば出陣とか)を決めることはあった。

 では、鉄砲は合図としてあり得るのか。先述した関ヶ原合戦における、家康の秀秋陣営への「問鉄砲」は、なかったという説が有力視されている。決め手となる一次史料がなく、後世に成った二次史料にしか書かれていない。

 理由は、それだけではない。実験してみると、家康の陣から秀秋の陣の松尾山まで、鉄砲の音がよく聞こえなかったというデータもある。また、そもそも秀秋は東西両軍に与するか逡巡していたので、仮に家康方が鉄砲を撃ち込んだら、逆効果ではないだろうか。

 それは、姉川の戦いでも同じことで、事前に「鉄砲の音が出陣の合図」と決めておけば話は別だが、鉄砲の音では何のことかわからないのではないだろうか。

 出陣を促すため、鉄砲を放つというのは話としておもしろいが、現実味が乏しいように思える。今回のドラマの場合は、あくまでフィクションではあるが、やはりあり得なかったということになろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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