“美学”に生きた島木譲二さん
席に着いたら、まずは「生ビール3つ」
“パチパチパンチ”“ポコポコヘッド”などのギャグで親しまれた吉本新喜劇の島木譲二さんが16日に72歳で亡くなった。
2010年からは糖尿病に伴う腎臓病などで療養中で表舞台には出てなかったが、僕は1999年から2012年まで、デイリースポーツの記者として数え切れないほど島木さんを取材し、何回か宴席もともにした。
とにかく豪快に飲む人で、お気に入りのビヤホールに着くや否や、まず生ビールを3つ注文する。そして、それを驚くほどの速さで一気に空ける。もともと、プロボクサーとして西日本のミドル級新人王になるくらい腕っぷしの強い人だったが、それ以上に、非常に腰の低い人だった。僕は島木さんの悪口を言っている人を一人も見たことがないが、新喜劇の座員さんに聞くと「それに加えて、島木さんが人の悪口を言っているのを誰も見たことがない」と話していた。
離婚について直撃され…
個人的に、一番思い出に残っているのは2001年12月、島木さんの離婚をスクープした時のこと。すでに前年に離婚しているという情報を得て、ウラをとるために、大阪・なんばグランド花月(NGK)の楽屋に潜り込み、舞台終わりの島木さんを直撃した。当時、僕は記者3年目の駆け出しだったうえに、離婚というネガティブな話を本人に事実確認するという流れ。しかも、コワモテの島木さんだけに、正直、かなりのプレッシャーを感じながら、こっそりと楽屋で島木さんが戻ってくるのを待った。
そこに、のっそのっそと島木さんが登場。今でも、細い廊下を島木さんがこちらに歩いてくる光景はくっきりと脳裏に焼き付いているが、恐々「…あの、離婚されたというお話を聞いたのですが」と切り出した。返ってきた答えは、予想外のものだった。「よう、知ってまんなぁ。ホンマだっせ」。事もなげに、あっさりと認めた。もともとはおしどり夫婦として知られ、時々、テレビにも一緒に出ていたほどだったが「全部、ワシが悪いんです。ホンマに。向こうは何にも悪くない。どうか、そこだけは頼みます」と説明して、奥の部屋に入っていった。
声を荒らげることもなく、堂々と認め、前妻への気遣いを前面に押し出す。「こんなところまで入り込んできて、何を聞いとんねん!!」とどやされても仕方ない状況でもあったが、島木さんの圧倒的な器の大きさを見せつけられた気がした。
独自の美学
また、これも新喜劇の座員さんから聞いた話だが、NGKの楽屋ではあらゆる芸人さんが近所のお店から出前をとって昼ごはんを食べている。それは完全にNGKの日常風景となっているが、意外にも、島木さんが楽屋でご飯を食べている姿を見た人は誰もいないという。
「自分の中の美学がある人で、楽屋でみんなの前でご飯を食べるということを絶対にしなかった。体が悪くなってから人前に出なかったのも、弱いところを人には見せたくないという美学だったと思う。そんな自分の美学をペラペラしゃべらないのも、恐らく美学だったようで、事細かに話していたわけではないが、あらゆるところにそれが垣間見えていました」(新喜劇座員)。
2011年に体調不良で休養に入ってからは、極端に人との接点を少なくした。そこにも、自身の美学が表れていると言う芸人仲間も多い。
また、十数年前に吉本興業の若手女性社員さんで島木さんのお気に入りと言われていた人がいた。念のために説明をしておくと、別に色恋とかそういう話ではなく、「ワシ、○○ちゃんのファンやねん!!」と仲間内で言うくらいのレベルでのお気に入りという意味。その女性社員さんは、芸人さんや他の社員さんから、かなりイジられるキャラクターで、もちろん愛情があってのイジリではあるのだが、「ブサイク」キャラ的な扱いも受けていた。
島木さんと宴席をともにした時に、ふとその人の話になり「○○さんって、島木さんのお気に入りの人ですよね?」と冗談交じりに尋ねてみた。すると、これもまた予想外の答えが返ってきた。「そら、愛嬌があって、可愛らしい子やなとホンマに思いますけど、若い女の子やのに、あんまり言われてたらかわいそうですやん。僕一人でも、そんなことを言う人がいてるということで、ちょっとでも風向きが変わったり、本人が気ぃ良くなってくれたらうれしいなと思って」とポツリと本音を語っていた。
法名は「慈願院釋譲道(じがんいんしゃくじょうどう)」で「仏の慈しみの願いを受けてきた人」との意味が込められていると聞いた。本当に強い人は優しい。また優しさは強さにも通じる。まさに、それを体現し続けた人だと痛感している。合掌。