松本人志さんの裁判終結。取材をしてきて感じたこと。そして始まった新たな戦い
松本人志さんと週刊文春の裁判が終結しました。
松本さんが仕事を休んでまで起こした裁判をやめる。唐突な幕引きでもありましたが、松本さんサイドを取材してきたことを今一度振り返ると、感じることがいろいろとありました。
そもそも、裁判という形を選択したこと。注力するために仕事を休むこと。5億5000万円という大きなお金を求めたこと。
その源は「怒りの蓄積」だと複数の関係者から聞いてきました。
今回の裁判は昨年末の文春報道に対してのものだが、そこに至るまで、何年も前から松本さんには強い憤りがあった。
「雑誌は“書き得”。こっちは“書かれ損”。いい加減なことを山ほど書かれて、そのたびにこちらは傷つくことになる。こんなことが続いていて良いわけがない」
あくまでも松本さんからすればですが「こんなもん、許されていいわけがない。やってられない」との思いがずっとあった。
なので、今回の文春報道のみならず、積もりに積もった思いをこの裁判に集約させた。瞬間的な怒りではなく、長年の怒りであるがゆえに深くて濃い。だからこそ、休んでまで徹底的にやる。そんな意志を持って、裁判というリングに上がった。
ただ、それと同時に自分の中の、ある思いを再認識したとも聞きました。
ファンが自分を求めてくれる。応援してくれる。今の状況になったからこそ感じるファンのありがたさ。そこを裁判が始まってから改めて噛みしめたといいます。
「何が何でも徹底的にやってやる」という怒り。そして、この状況になって再認識したファンへの思い。そこを天秤にかけた時に、自ら歩んだ道だが、そこからおりることを見据えるようになった。様々な人の話を総合すると、この要素は確実にあったと考えています。
ただ、裁判を始めた以上、何もないのにその道からおりたのではやった意味がない。松本さん側のコメントにある「物的証拠がないことなどを含めて確認した」という部分。ここが今回の裁判の意味であり、その結果、これ以上このリングに上がっている必要はないという判断に至ったと聞きます。
その部分の表現もそうですし、その部分をコメントに入れたこと自体もそうですし、今回のコメントは双方で話し合って、いろいろな人が練りに練って出したものです。これ以上、精度が高いことを言葉にするのは難しいでしょうし、しゃべればしゃべるほど新たな争点を生むことにもなりかねません。
となると、松本さんが会見を開いて自らこの件について話す。その確率は極めて低い。そんな温度感を各所への取材から感じます。
ここまでが取材してきたこと、それを基に感じたことです。綴るまでもないことですが、これを僕自身が是と思っているわけでもなければ、非と思っているわけでもありません。取材から得たものを機械的に綴ったまでです。
ここからは、そういった状況も含め、世間が今の松本さんをどう受け止めるのか。現実問題として松本さんが仕事に戻れるのか。それがシビアに問われる時間が始まります。
「ダウンタウン」として浜田雅功さんと吉本興業の劇場・なんばグランド花月に出て漫才をする。これは吉本興業さえゴーサインを出せば、明日にでもできることです。吉本興業の劇場ですし、お客さんはお金を払ってまでそれを見たいと思っている人のみ。松本さん、浜田さん、吉本興業が「やろう」となればできる話です。
ただ、テレビに戻るとなると、吉本興業サイドだけではなく、当然、番組を作っている放送局、スポンサーの意向も加わります。多くの人からの賛同を得ないといけない。劇場出番とは違い「OK」をもらわないといけない人の数が跳ね上がります。
そして、笑いとは繊細極まりない商品です。ちょっとした違和感で、味がガラッと変わります。視聴者が松本さんを見て「結局、裁判していた話はどうなったの?」「何が本当のことなの?」「被害を訴えていた女性はどう思っているの」と首を傾げた時点で磁場は変わります。
待っているファンが多いのも事実。ただ、取り除くべき違和感が多いのも事実です。
裁判は終わったが、松本さんにとってはまた次の戦いが始まった。それが過不足ない現状だと考えています。