元J2日本人得点王 引退試合に見る”ヒント”
心温まるJリーガーの引退試合に参加(出場)してきた。
10月4日、浦安市陸上競技場で行われた「長谷川太郎引退&浦安レジェンドOBマッチ」。
秋の晴天のもと2500人もの観客が集まり、小さなメインスタンドが満員になった。
「太郎Friends」と「浦安OBレジェンズ」 の対戦では、長谷川と縁のある元Jリーガーや芸能人が多数登場。クラブのテクニカルディレクターを務める都並敏史氏も後半終了間際にピッチに登場し、現役時代さながらのタックルを披露するなど大盛り上がりを見せた。メインキャストの長谷川は前半、後半でユニフォームを着替え両チームでプレー。2ゴールを記録した。2005年J2リーグ日本人得点王。誰からも愛されるストライカーが、試合中にもかかわらず両チームから胴上げされるシーンもあった。
長谷川の日本での最後の所属クラブ「ブリオベッカ浦安選手会」が主催したこのゲーム。開催の背景には、思わずヒザを打つようなアイデアとストーリーがあった。Jリーグの公式イベントとして行われるような大規模な引退試合ではない。しかしそこには、いちJリーガーと街クラブの意義深い関わり合いがあった。日本サッカーの未来を示すイベントだった。
心優しきストライカー
1979年生まれの長谷川は、98年に柏レイソルユースからトップ昇格。ここを皮切りに、アルビレックス新潟(02年)、ヴァンフォーレ甲府(03‐07年7月)、徳島ヴォルティス(07年8月-12月)、横浜FC(08年)、ニューウェーブ北九州/ギラヴァンツ北九州(09年-10年)でプレーした。167cm64kgの体格から鋭いゴール感覚を発揮、J1通算38試合出場4ゴール、J2通算141試合22ゴールを記録している。
キャリアハイは2005年だった。
ヴァンフォーレ甲府で17ゴールを記録。この年のリーグ日本人得点王に輝くとともに、チームのJ1昇格に絶大な貢献を果たした。
長谷川はまた、その優しい人柄でも知られる。
この日のスタンドにはヴァンフォーレ甲府など彼が所属したJリーグクラブのサポーターの姿もあった。
一様に「誰とでもオープンな姿勢で話す」「ストライカーなのに本当に優しい」と口にする。筆者自身は、長谷川がギラヴァンツ北九州在籍時に彼と知り合った。筆者にとっての郷里クラブでプレーした長谷川との初対面が忘れられない。「吉崎さんのお母さん(北九州在住)、○○整骨院に通われてますよね?」と話しかけてきた。長谷川自身もそこに通っており、言葉を交わす機会があったのだという。ウチの母とまでも仲良くしてくれるなんて、どこまで優しいんだこのストライカーは。そう思ったものだ。
まずなにより、このゲームが行われた背景には、長谷川太郎の人柄がある。それが周囲を動かしたのだ。
浦安との縁
長谷川は2010年シーズンを最後にギラヴァンツ北九州との契約が満了。
実家のある東京都足立区に戻った。
次の所属チームは、そこから通える当時千葉県リーグ所属の浦安だった。
長谷川自身の目標は「たとえ下のカテゴリーであっても自分のプレーを磨き、再びJのピッチに立つ」ことだった。
いっぽうでクラブ側は、長谷川に対してクラブの別の仕事を併せたオファーを出した。
クラブが運営するサッカースクールの子どもたちにサッカーを教えることだ。
クラブ(特定非営利活動法人浦安スポーツ&カルチャークラブ)の代表を務める谷口和司氏(56)はいう。
「もともとは1989年に少年サッカーチーム「浦安JSC」としてスタートし、00年にトップチーム「浦安SC」が誕生したクラブなんです。今年の関東リーグ1部昇格を機にトップチームの名称を「ブリオベッカ浦安」にした。根幹は子どもたちにあるんです。教えてきた子供たちをベースに上のカテゴリーを目指そうとしている。ただしJ1,J2とは言っていない。「県」や「都市圏」より小さなホームタウンを対象にしたJ3に上がろうと。都並敏史さんもこの我々のコンセプトの共感し、テクニカルディレクターに就任いただけた。『このクラブがJのカテゴリーに昇格したら革命的だね』と」
谷口氏はもともと自身の子どもがこのクラブに通っており、そこからの縁でクラブに関わった。そのコンセプトに強い共感を覚え、10年前に代表を名乗り出た。近年は「会社員としてよりも、クラブの代表として人生を賭けたい」とコンサル会社を早期退職。在職時のノウハウを生かしながらトップチーム28選手のほか、下部の育成組織約350人が関わるクラブ運営を手掛けている。
このクラブで長谷川は、ピッチ上で絶大な貢献をしていく。
2011年の入団時には千葉県1部リーグだったチームを、2013年までに関東2部(無敗優勝)、関東1部リーグまでに引き上げた。途中、東日本大震災による液状化現象の影響で練習グラウンドが使えない状況も乗り越えての結果だった。
この日、試合を応援に訪れたブリオベッカ浦安のサポーター”杉浦さん”は当時をこう振り返る。
「県リーグの試合でも一切不満そうな表情を見せずにプレーしていました。試合会場が”天然芝”と表記されていても、実際には草がボーボーに生えているだけ、というような場所もあった。でも彼は一切動じることなく自分の仕事に徹した。動じない、といえば、『サポーターの応援にも舞い上がらない』という姿も印象的でした。じつのところ県リーグでは選手が応援されると動揺する、ということもありましたから。そういった意味では、長谷川選手は本当にプロでした」
長谷川はピッチ上の選手たちにも、Jリーガーの凄みを伝えていった。クラブ代表の谷口は言う。
「彼の『シュートをゴールの枠から外さない』というスキルや考え方は、当時の選手はもちろん、今の選手たちにもクラブの伝統として伝わっています。彼が11年から13年まで浦安に所属したなかで伝えてくれた、最も大きなポイントです」
引退試合はどうやって行われた?
長谷川は2013年シーズンを最後に浦安を退団。海外挑戦というもう一つの夢を叶えるべく、インドの地に渡った。浦安としては、すぐにささやかな引退試合を用意していたが、長谷川本人のキャリア続行のため延期となった。
2014年5月、長谷川はインドリーグで3ケ月のプレー(11試合出場3ゴール)最後に引退を決める。
そこからさらに一年以上、引退試合の開催が延びた。クラブ側が、今年4月にオープンした浦安市陸上競技場での引退試合開催をもって、はなむけとしようとしたのだ。谷口が続ける。
「彼はこのスタジアムでプレーすることがなかった。だからこそ、こういった機会を設けたかった。競技場を所有する行政側は、快くこの一日(10月4日)競技場を貸してくれました。『子どもたちのためになるイベントをしてくれれば』と」
実際にこの引退試合の前後には、多くの子どたちを対象としたスクールが行われた。試合前の部門では、都並敏史テクニカルディレクターが大いに盛り上げながら指導。試合後には浦安の選手たちと一緒になってのミニゲーム大会が行われた。大人のプレーを観た直後の子どもたちが、ついさっきまでピッチに立っていた浦安の選手たちと大騒ぎしながらプレーする場面を目にした。街クラブが全面サポートしたJリーグの引退試合の”主役”は、じつは子どもたちだったのだ。
とはいえ、この引退試合開催には、一つクリアすべき壁があった。
お金。運営資金だ。
どんなに夢があふれる企画も、これなしでは実現できない。
ここに斬新なアイデアがあった。インターネット上で主旨を説明し、そこへの賛同者から資金を集めるクラウドファウンディングを活用。谷口が呼びかけたこの試みから、目標金額の50万円を超える80万円超が集まった。これにより「試合開催費のおよそ50%は得られた。残りの半分はスポンサーフィー」(谷口)という。かわりに賛同者に対して、出場選手サイングッズなど徹底的なお礼を施した。いっぽう、出場した元Jリーガーや芸能人に対しては、ギャランティを支払わない代わりに、運営費のなかから開催したパーティに無料招待。結果、「収支はきれいにトントンになりました」(谷口)。
これぞ知るべきヒント!
こういった浦安の姿は、日本サッカーの底辺拡大のためにももっと知られていくべきものだ。クラウドファンディングを活用しての引退試合開催は、クラブのそこまでの活動があってこそのものだ。
まずは「子どもたちを主体」というクラブとしての軸がしっかりとしている点。トップチームはクラブで育った選手の受け皿なのだ。
この結果、試合の開催について行政から「スタジアムの一日貸し出し」というサポートを引き出した。言い換えるならば、「いち個人にかかわるイベント」を「公共性のあるイベント」とうまく転換し、結果、すべてがハッピーになる一日をつくりだした。
さらに、長谷川というJリーガーの英知をアマチュアプレーヤーに伝えていくチャンネルとして、街クラブが存在している点だ。前述のとおり「シュートを外さない」という点がクラブに伝わった。長谷川はまた、在籍時にプレーヤー以外にコーチとして指導した少年チームやU-15女子の選手たちに技術を指導した。その結果……長谷川自身の誰にでもオープンに話しかける人柄から、長谷川は保護者に大人気になったのだという。地域の人たちが、クラブにより強い関心を持つきっかけになったのだ。
引退した元プロ選手の英知は、もっと活用されていくべきものだ。
この日、引退試合でプレーした元Jリーガーの多くも「地域で子どもたちを教えたい」という情熱を口にしていた。
ブリオベッカは関東リーグ所属だが、こういった地域リーグ、都道府県リーグの街クラブがこの受け皿になっていく流れは活性化すべきだ。クラブ側としても、地域に提示できる新たなコンテンツとなるし、選手側の情熱も昇華できる。筆者自身も、草サッカープレーヤーとしてぜひ元プロのGKが守るゴールにシュートを打ってみたい。どれだけすごいのかと。でも東京に暮らす今、そこに触れるチャンネルがない。
さらに代表の谷口がもともと「子どもがこのクラブのスクールに通っていた」というきっかけから、クラブ代表へと転じていく姿が興味深い。「地域密着」という点では、Jクラブにとっての模範にもなりうる。そうすら感じた。なぜなら浦安の場合、「浦安に暮らす、自分たち自身がクラブの主体」なのだから。Jリーグの基本理念のひとつ、「地域密着」という言葉には、じつは「こちら(クラブ)」と「あちら(地域)」という意味が含まれている。浦安にはその垣根がないのではないか。筆者自身、ドイツの下部リーグでも目にしてきた姿と同じだ。Jリーグも93年の設立時に「模範にしたい」としたドイツのスポーツクラブの姿だ。
そんなことを感じた、小さくとも偉大な引退試合だった。
試合後、これがハッピーなものだったんだなと感じる瞬間があった。
長谷川太郎とすぐに言葉を交わしたかったが、なかなか彼の体が空かなかった。
サインに追われていたのだ。
地域リーグクラブの英雄は、会場入り口の特設会場で多くのファンに囲まれていた。
長谷川は引退後、2015年4月に自身が代表となってサッカースクールを設立。ストライカーの育成に特化した「TRE 2030」のプロジェクトを掲げた。セカンドキャリアでは、いまの子どもたちが大人になる、2030年ごろに活躍できるFWを育てる道を歩む。