小田原北条氏は、いかにして短期間で発展したのか? その過程を探る
今や起業は盛んであるが、短期間で倒産する例は珍しくない。小田原北条氏は伊勢宗瑞(北条早雲)が短期間で権力を築き上げ、以後100年近く続いた。その過程を探ることにしよう。
北条氏の祖は、伊勢宗瑞(北条早雲)である。宗瑞の出自は諸説あったが、現在は備中荏原(岡山県井原市)の出身で、室町幕府の政所の執事を務めた伊勢氏の後裔とされている。
長享元年(1487)、宗瑞は興国寺城(静岡県沼津市)の城主となり、伊豆国の堀越公方の足利茶々丸、小田原の大森藤頼を攻め滅ぼした。三浦義同・義意父子に勝利し、相模国を制圧したのは、永正13年(1516)のことである。
永正16年(1519)に宗瑞が亡くなると、家督を継いだのが氏綱である。北条を姓としたのは、氏綱だった。氏綱は大永2年(1524)に江戸城の上杉朝興を河越(埼玉県川越市)に敗走させ、武蔵国に進出したのである。
氏綱が天文10年(1541)に没すると、氏康が家督を継承した。天文15年(1546)、氏康は河越城の戦いで扇谷上杉氏を滅ぼすと、武蔵国に版図を広げたのである。
一方で、国境を境にする駿河今川氏、甲斐武田氏は、北条氏を脅かす存在だった。そこで、北条、今川、武田の三氏は、天文21年(1552)から2年を掛け、甲相駿三国同盟を締結した。同盟を結ぶことにより、氏康は関東の支配に専念することができたのである。
氏康は元亀2年(1571)に亡くなったが、没する以前の永禄2年(1559)には子の氏政が跡を継いでいた。氏政は黄梅院(武田信玄の娘)を妻に迎え、武田氏との関係を強固にした。
永禄4年(1561)、氏政は小田原城に攻め込んだ上杉謙信を退け、その3年後の第二次国府台合戦で里見義弘に勝利したのである。
永禄11年(1568)、信玄が今川領国の駿河に攻め込むと、氏政は今川氏真を支援した。これにより、氏政は謙信と同盟を結んだ(相越同盟)。ところが、氏康が死ぬと、氏政は信玄と和を結んだ(相甲同盟)。
その相甲同盟も、天正6年(1578)の御館の乱(謙信の後継者争い)により破綻した。翌年、氏政は徳川家康と結ぶと、武田勝頼を討つべく、黄瀬川に出陣したのである。天正8年(1580)、氏政は子の氏直に家督を譲った。
その2年後、武田氏は滅亡し、本能寺の変で織田信長が横死した。その混乱に乗じて、氏直は上野国に進出した。氏直は徳川家康との関係を強化すべく、娘の督姫を妻に迎えたのである。
こうして北条氏は繁栄を続けたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉に滅ぼされたのである。