日本型「失われた20年」に突入するイギリス 安倍首相は「生産性革命」の範を示せるか
「成長」より「分配」
[ロンドン発]イギリスのフィリップ・ハモンド財務相が22日、秋の予算編成方針を発表しました。来年4月から25歳以上の法定生活賃金を1時間当たり7.5ポンドから7.83ポンドに引き上げるとともに、初めて住宅を購入する若者世代を支援するため住宅取得税の免除を目玉政策として打ち出しました。
いずれも「成長」より「分配」に目配りした格差解消の政策です。欧州連合(EU)離脱による必要経費として今後2年間で30億ポンドを計上する一方で、生産性を向上させる政策も盛り込みました。生産性向上の目玉政策は次の通りです。
・5G(第5世代)の携帯電話ネットワーク、光ケーブル設置、人工知能(AI)支援に5億ポンド
・電気自動車、充電スタンドの成長支援に5億4000万ポンド
・研究開発費に23億ポンド
・デジタル技術の取得コースに3000万ポンド
・コンピューターサイエンスの教員8000人を採用するために8400万ポンド
・中等教育での数学教育充実のために1億7700万ポンド
数学強化の政策が、計算のできない人が意外と多いイギリスのお国事情を反映しています。予算編成方針に合わせてイギリス経済の見通しも発表されました。
EU離脱によってイギリス経済は力強く成長すると言っているのは、「政界の道化師」ことボリス・ジョンソン外相に象徴される無責任極まりない保守党のハードブレグジット(単一市場と関税同盟からも離脱)派だけです。
イギリスの予算責任局(OBR)は実質国内総生産(GDP)の予測を今年3月より大幅に下方修正しました。2%だった今年の成長率予測は1.5%に引き下げられ、2020年にはさらに1.3%にまで落ち込むそうです。
シンクタンク、財政研究所(IFS)のポール・ジョンソン所長は「国民1人当たりのGDPは2016年3月の予測より21年は3.5%も小さくなっている。イギリス経済は650億ポンドを失うということだ」と指摘します。
「平均収入で見ると1年で1400ポンド近く低くなる。2008年のレベルより低い。10年間どころか下手をすると20年間収入が増えないという事態に陥る危険性がある」と警鐘を鳴らしました。
要するにイギリスも日本の「失われた20年」と同じ轍を踏みかねないというわけです。
生産性パズル
OBRによると、イギリスの生産性は2008年の世界金融危機前からほとんど伸びていません。
世界金融危機を境にした生産性伸び率の低迷は何もイギリスに限ったことではありません。先進国に共通する「生産性パズル」と呼ばれるこの現象はイギリス、それ以上に日本に顕著に現れています。
下のグラフはイギリスを100とした場合、就業1時間当たりの名目GDP(2013年データ)で比較したグラフです。先進7カ国の中でイギリス、特に日本がずば抜けて低いことが分かります。
日本は1990年代に金融バブルの崩壊を経験。イギリスでも2008年に金融バブルが崩壊します。イギリスの金融危機対策は90年代の日本と同じように財政出動と公的資金注入による不良債権処理を行い、事実上の「ゼロ金利」と量的緩和を同時に進めました。
日本が非正規雇用を増やしたように、イギリスも雇用主から要請があった時にだけ労働力を提供する待機労働契約「ゼロ時間契約」やタダ働きに近い実習生制度を拡大していきます。日英両国では就業率は大幅に改善したものの、逆に低賃金化が進んでしまったのです。
最低賃金引き上げの落とし穴
バブル崩壊後、日本は雇用、設備、債務という3つの過剰の解消に努めたため長らく労働力が余って、宿泊業、飲食サービス業といった低賃金のビジネスモデルが普及しました。
イギリスでもEUの旧東欧・バルト三国から低賃金労働者が大量に流れ込み、農業や農産物加工業、宿泊業、飲食サービス業が活況を呈しています。
製造業の優位性が残るドイツとは違って、日本の製造業は自動車メーカーを除いて優位性を失い、生産拠点は低賃金労働者が豊富にいるアジアに移されました。
製造業では機械化と無人化を進めれば生産性を上げることができますが、人手のかかるサービス業ではなかなか改善が進みません。設備投資するより低賃金労働者を雇った方が安く済むからです。
世界金融危機のあと、さらに広がった格差解消のため日本では最低賃金が引き上げられ、イギリスでは最低限の生活水準の維持に要する賃金水準を設定する生活賃金が導入されました。
生産性が上がれば、それに合わせて賃金も上昇しますが、逆は必ずしも真ならず、です。生産性の低い労働者の賃金を上げれば「分配」の強化につながっても「成長」の妨げになりかねません。
労働力不足を転機に
フランスの労働生産性は一見高いように見えますが、これは労働者の権利が守られ過ぎている証拠です。正規雇用の労働者に賃金が高く維持される代わりに、若い労働者の雇用が控えられてきました。
日本は団塊の世代が定年を迎え、労働力不足に転じました。イギリスはEU離脱によって旧東欧・バルト三国からの低賃金労働者流入に歯止めがかかる可能性があります。
日英両国ともこれを転機に低生産性ビジネスのモデルを高生産性ビジネスに切り替えるべきなのです。
低賃金労働者を放置しておくと知識や技術の蓄積は期待できません。低賃金のサービス産業にICT(情報通信技術)やAI(人工知能)、ビッグデータ、ロボットを導入して機械化、無人化に取り組まなければなりません。
日本では雁字搦めの規制に守られてきた金融セクターのICT化がほとんど進みませんでした。マイナス金利政策で収益が上がらなくなった金融セクターもようやくフィンテック(ファイナンシャルテクノロジーの略)に活路を見出そうとしています。
安倍首相の「生産性革命」宣言
安倍晋三首相は17日の所信表明演説で「アベノミクスで雇用はこの5年間に185万人増加しました。この春、大学を卒業した皆さんの就職率は過去最高です」と胸を張りました。
「史上最高に近い3200万人以上が働いています。失業率は1975年以来最低です」と言ったハモンド財務相と良く似ています。
「人工知能、ロボット、IoT(モノのインターネット)。生産性を劇的に押し上げるイノベーションを実現し、世界に胎動する『生産性革命』を牽引していく」という安倍首相の発言もハモンド財務相の生産性向上政策と瓜二つです。
しかしサービス産業でも生産性が高い分野から低い分野への知識や技術の移転が行われなければ生産性革命は起きません。
Facebookの共同創業者兼会長兼CEO(最高経営責任者)マーク・ザッカーバーグ氏(33)はアメリカを旅して、新しいテクノロジーを利用できるように訓練して地域の起業を促していくことの大切さを痛感したそうです。フェイスブックはすでに30都市で6万件のスモールビジネスを支援しています。
サービス産業の中でも生産性の低いロングテールで「生産性革命」を起こすのがカギです。そのためには時代に即した教育と職業訓練、能力向上が求められています。日銀の異次元緩和で需要を喚起したアベノミクスは補正予算のバラマキではなく、今こそ供給サイドの改革に大きく舵を切る時なのです。
(おわり)