悲劇の王子 ルイ17世
フランス革命は様々な作品で取り上げられることも多いです。
しかしルイ16世の息子のルイ17世の存在に関しては、あまり語られることがありません。
この記事ではルイ17世の軌跡と悲劇について取り上げていきます。
将来の国王、革命で運命を狂わされる
ルイ17世は1785年3月27日、ヴェルサイユ宮殿でフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男として生まれました。
彼はノルマンディー公爵に叙され、兄の早逝により1789年に王太子となります。
同年、フランス革命が勃発し、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に移され軟禁状態になり、さらに1791年にはヴァレンヌ事件を起こし、1792年の8月10日事件を経てタンプル塔に幽閉されることとなりました。
タンプル塔の中では父のルイ16世と同居していたものの、その翌年にルイ16世が処刑されると、その運命はより悲惨なものになります。
革命下の「恐怖政治」の中、8歳のルイ=シャルルは、靴屋のアントワーヌ・シモンのもとに引き取られました。
シモンはアルコール中毒で無作法な男であり、ルイ17世に暴力をふるったのです。
この再教育は彼の貴族的性質を取り除くことを目的とし、少年に過酷な雑用をさせ、精神的にも追い詰めました。
さらにシモンはマリー・アントワネットを処刑に持ち込むために、ルイ17世に「近親相姦があった」という虚偽の証言をさせました。
なおこれについては当時の人々も荒唐無稽であると捉えており、革命の指導者のひとりであったロペスピエールはシモンに対して大激怒さえしたのです。
わずか10歳で死亡
そのような再教育は半年ほど続きましたが、派閥争いによってシモンがロペスピエールともども処刑されると、再教育は終わりを告げました。
しかしそのあとの日々はある意味シモン時代より過酷なものであり、ルイ17世は約半年間、ほとんど隔離状態で監禁され、特定の保護者もなく、看守が毎日交代する過酷な環境に置かれていました。
1794年7月27日のテルミドール9日のクーデター後、革命家ポール・バラスが訪問した際、ルイ17世は不満を述べませんでしたが、恐怖から何も言えなかったとも伝えられています。
その後、状況はわずかに改善され、ジャン・ジャック・クリストフ・ローランが新たな保護者として任命されましたが、ルイ17世は次第に沈黙を続けるようになり、健康状態も悪化。
1795年5月に重病となり、6月8日に悲惨な状態のまま亡くなりました。
医師たちは彼の状況を「最も残忍な仕打ちの犠牲者」と表現し、その死を「なんたる犯罪だ!」と嘆いたほどです。