なぜ敦康親王でなく、敦成親王が皇太子に選ばれたのか? 藤原道長が関与した事情とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、敦康親王でなく、敦成親王が皇太子に選ばれた場面が描かれていた。そこには藤原道長も関与したので、その辺りの事情について考えてみよう。
一条天皇(円融天皇の子)が即位したのは、寛和2年(986)のことである。皇太子は4歳年上の居貞親王(のちの三条天皇)が立てられ、藤原兼家(道長の父)が摂政として支えることになった。
一条天皇の中宮は、摂政・関白を歴任した道隆(兼家の子)の娘の藤原定子である。道隆は道長の兄だった。一条天皇と定子との間に誕生したのが、第一皇子の敦康親王である。とはいえ、事情は複雑だった。
長徳の変により、定子の兄の伊周は失脚した。伊周は父の道隆のおかげで異例の大出世をしたが、すべてが台無しになった。いちおう復帰こそ許されたものの、往時の威勢はすっかりなくなっていたのである。
長保2年(1000)、定子は媄子内親王を出産した直後に亡くなった。伊周にとって、残された敦康親王こそが唯一の希望だった。仮に、敦康親王が天皇になれば、自身の復権が可能になるからだ(伊周は10年後に死去)。
ところが寛弘5年(1008)、道長の娘で一条天皇の中宮の彰子が敦成親王を産んだのである。一条天皇が亡くなったのは3年後のことだが、死の間際に敦康親王と敦成親王のいずれを皇太子にするかが問題となった。
通常は第一皇子が皇太子になるので、一条天皇もその意向だった。しかし、道長は敦康親王が皇太子になることにより、自身の権力基盤が弱くなることを危惧した。そうなると道長にとって、敦成親王を推すことが唯一の選択肢となる。
寛弘8年(1011)、一条天皇は藤原行成に皇太子の問題について、助言を乞うた。行成は先例を挙げたほか、道長の意向を汲むことが最善であると答えた。その結果、一条天皇は道長の意に沿うべきだと決断し、敦成親王を皇太子に据えたのである。
この結果を聞いた彰子は、何の相談もなく決まったので激怒したと伝わっている。とはいえ、極めて高度な政治的判断だったので、彰子には何ら成す術がなかった。こうして道長は、盤石な権力基盤を築くことに成功したのである。