日本で平和に暮らす弟と、難民キャンプの兄――引き裂かれたロヒンギャの兄弟、それぞれの今
「私と私の兄弟は、何も変わらない同じ人間。けど、彼らは今どこにいる?」。日本に住むロヒンギャのハルーン・ラシドさんは言う。ハルーンさんは、1980年代にミャンマーの民主化運動に参加。運動が失敗すると軍による弾圧が始まり、家族と離れて日本へ逃げざるを得なかった。かつて共に学校へ通った兄は今、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプにいる。ハルーンさんは、遠い場所で暮らす家族のことを寝ても覚めても考えている。
●日本で平和に暮らす弟と、難民キャンプにいる兄
日本でハラルフード店を経営するロヒンギャのハルーン・ラシドさん(61)。中古自動車の輸入業も営み、仕事は順調だ。2001年に妻と子どもたちをミャンマーから日本へ呼び寄せ、今は子どもと孫たちと一緒に住んでいる。
ハルーンさんが日本で平和に暮らしているのとは対照的に、2歳上の兄シュア·ミナさんは、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプにいる。トタン屋根でできたシェルターの中で、仕事をすることも、難民キャンプの外に出ることも許されない。
「私たち、どんな間違いやった」
離れて暮らす兄を思い、ハルーンさんはそう呟いた。子どもの頃、バッグを背負って一緒に学校へ行ったこと。親戚の家に居候したこと。どちらがテストでいい点数を取れるか、勝負したこと。共に過ごした思い出が頭に浮かぶ。
ハルーンさんは仕事で稼いだお金で、バングラデシュのロヒンギャ難民キャンプに学校を建てた。兄や親戚、学校などに、合わせて毎月数十万円を送金している。
「私と私の兄弟は、何も変わらない同じ人間。けど、彼らは今どこにいる? 私が助けないと、誰が助ける」
●終点のない山手線に乗り続けて、気を休めた
1988年、ハルーンさんはミャンマーでの民主化運動に参加した。高学歴だった彼は、運動の前線に立った。しかし、運動は失敗。軍は運動に参加した者の弾圧を始め、友人は次々と捕まった。軍の追手はハルーンさんが住む村へもやってきて、家族を置いて一人で逃げざるを得なかった。マレーシアやタイなどを転々とし、1993年に日本へ亡命してきた。
日本に来てからは、六本木のインド料理店などで働き、家族への仕送りを稼いだ。出稼ぎの仲間たちとマンションの一室を借りた。それぞれが異なる仕事をしているため、自分が寝ようとする時に帰ってくる人もいれば、起きた時に寝なければいけない人もいる。ハルーンさんは気が休まらず、終点のない山手線に乗り、山手線でぐるぐる回って休みをとったという。
ミャンマーに置いてきた妻が病気になっても、子どもたちが寂しがっても、軍に追われていたハルーンさんは帰ることができなかった。一度、バングラデシュで家族と落ち合ったが、それ以外で会うことは叶わなかった。ハルーンさんは日本で「O sham Rengon no saiyu Re」という歌をよく聞いて過ごした。
あなたがいない時、奥さんとか子供は寂しい
あなたもすごく寂しい
だから行かないほうがいい
行かないでください
私は大きいお金いらない
私の家族はちょっとのお金でも
ご飯一緒に食べて 楽しいほうがいい
出稼ぎのため、村からミャンマーの首都・ヤンゴンに行く夫のことを歌った曲だ。日本に来てから8年の時を経て、やっとハルーンさんは妻と子と暮らせるようになった。
●「あなただけのために、神は恵んだわけじゃない」
2021年3月、難民キャンプに暮らすハルーンさんの兄シュア·ミナさんを訪ねた。
「防水シートのシェルターで暮らすのはとても苦しい。自由に行動できないことも苦しい。どうにか生きることでいっぱい。自由に暮らすこともできず、故郷が恋しい」
主にミャンマー西部のラカイン州に暮らす、約200万人のロヒンギャ。国籍を持たず、1990年代から数十年にもわたって、差別と激しい迫害に苦しめられてきた。多くの人々が国外へ逃げている。
2017年8月25日、ラカイン州北部でロヒンギャの村でミャンマー軍による虐殺が発生し、多くのロヒンギャの人々が隣国のバングラデシュへ逃亡し、難民となった。その中に、兄シュア·ミナさんもいたのだ。
シュア·ミナさんを取材中の2021年3月23日、ロヒンギャ難民キャンプでの過去最大の火災が起きた。15人死亡、560人余りが怪我をして、一時400人以上の行方不明者が出た。そして1万にのぼる住居が焼失し、約4万5000人が住む場所をなくした。
「弟は、私が病気になった時も助けてくれた。私は家族みんなが健康でいられるか、それをずっと考えてる。何もかも焼かれてなくなってしまったけど」
今、日本でハルーンさんは、ロヒンギャの現状について伝えるため、デモや講演会などの活動に力を注いでいる。平日も休日も忙しい。
「日本人の友達は言う。いい暮らししてるねって。神が助けてくれたねって。東京の自宅で暮らして、家族がいて親戚がいて、十分すぎるよ。だから神に感謝して、他の人に返してあげなさいと。あなただけのために、神は恵んだわけじゃないから。もし活動をやめればもっと楽なはず。だけどやめない。みんなが平等に暮らせることのほうが私にとってはかけがえがないから。だから今日も戦う」
ミャンマーでは、今年2月にクーデターが起き、国軍が実権を掌握した。アウン・サン・スー・チー氏の政権下でもロヒンギャの存在を支持してこなかった民主派の人々が、長らく国軍の迫害を受けてきたロヒンギャに接近する構えを見せている。国軍に対抗するため、協力する必要があると判断したのだろう。6月3日、民主派が樹立を宣言した「統一政府」は、ロヒンギャに「力を合わせ、国軍の独裁に対する革命に参加しよう」と呼び掛ける声明を出し、市民権の付与やバングラデシュにいる避難民の帰還を約束した。
ハルーンさんは、今後の行方について確実に分かることは何もないと前置きしつつ、こう語る。
「多くのミャンマー国民は、ロヒンギャが弾圧を受けてきたことを信じてこなかった。でも、今回の軍事政権の弾圧で、やっとロヒンギャが主張してきたことは嘘じゃなかったと反省した。軍事政権が終われば、市民権が付与され、避難民の帰還も夢ではない」
「避難しているロヒンギャのみんながミャンマーに帰ったら、私もみんなに会いにミャンマーへ行って、家を建てたりすることを手伝う。みんなが一緒に暮らすところを死ぬまでに見たい。それが夢」
夜の11時、ハルーンさんはそう言いながら、お店の電気の明かりを消した。
受賞歴
Asia on film Festival, 国際平和映像祭 アワード/観客賞受賞,
ロンドン国際映画祭, Short and Sweet film festival, Global Film Festival オフィシャルセレクション
クレジット
監督/撮影/編集
小西遊馬
編集協力
金川雄策
Special Thanks
ハルーン・ラシド、シュア・ミナ