”ママがドラッグを売ってくれたから、私はもう大丈夫” アメリカで歌う30歳女性ラッパーの人生の断片
「ママがドラッグを売って育ててくれたから、もう私はそうする必要がないーー」。
9歳の時からラップで有名になりたいと自主制作で楽曲を作り歌い続けているアメリカオクラホマ州在住ラッパーのK.O.(30)。貧しい母子家庭に育ち、家計を支えるためドラッグの売人となった母親は、K.O.が6歳の時に逮捕。同じ地域に住む兄弟や幼馴染も次々と犯罪に手を染めた。アメリカでは、黒人たちにとってバスケットボールやヒップホップは、貧しく十分な教育を受けられなくとも、貧困から脱するための大きな希望となっている。主人公のK.O.も30歳と決して若くはない中で、黒人のコミュニティーを勇気づけたい、家族に十分な暮らしをしてほしいと、仕事を3つ掛け持ちしながら思い思いの歌を歌い続けていた。BLM運動(Black Lives Matter/直訳:黒人の命も大事だ)で再び脚光を浴びた黒人社会の今を見た。
30歳と決して若くはない中でラッパーとしての成功を目指す主人公のK.O.は、アメリカ南中部にあるオクラホマ州の小さな町イニドに生まれ、今も暮らしている。駐車場の交通整理、ビルの清掃、データの打ち込みの3つの仕事を掛け持ちしながら、帰宅後に夜な夜な楽曲を作っている。アルバイト代も録音スタジオ代とミュージックビデオ制作費に消えていく。音楽での収入は今のところほとんどない。彼女の音楽とのつながりは幼少期にまで遡る。
DJをしていた母親の影響で、生まれた時から音楽はいつも身近にあった。また、地元のギャングと付き合い、盗みに明け暮れていた兄は、盗んできた大きなスピーカーや大量のCDをプレゼントしてくれたという。そのCDの中には、ラップのレジェンドと呼ばれる2PACやクイーン·オブ·ヒップホップ·ソウルと称されたメアリー·J.ブライジなどの音楽があり、彼女はそれらに強い影響を受けて育った。
父はなく、シングルマザーの母は、子供たちを食べさせるためにドラッグの売人として稼ぎに出る。K.O.が6歳の時に母は捕まり、13歳のときに出所するまでの7年間、K.O.は祖父母に育てられた。兄は殺人を犯し逮捕され、従兄弟や近所の若者たちもドラッグやギャングの道へ進んでいった。K.O.の地元の黒人コミュニティーにおいて、貧困による片親やDV、ギャングやドラッグなどの問題は決して珍しい話ではない。
K.O.は幼馴染がギャングとなり、ストリートで殺されていく様子や、母や兄弟が捕まっていく姿を目の当たりにして育ち、引き取られた祖父母の家では、より激しい差別の時代を生きた祖父母と理解しあえず、いつも孤独を感じていたという。精神的な疾患を抱えたK.O.は幼い時に、セラピープログラムに入れられ、そこで心的回復を促すプログラムの一つとして詩と出会った。当時の自分の心境や、自らの置かれている環境を詩に書き始め、そしていつしかその詩を聴き馴染みのあったラップを通して歌い始めたのだ。
「My mama sold drug so I would never have to(ママが私たちのためにドラッグを売ってくれたから、私はもう大丈夫)」
K.O.の周囲にとどまらず、黒人の犯罪率は高い。黒人がアメリカの人口に占める割合は、12.4%(2014)にもかかわらず、犯罪数全体の約4分の1が、黒人による犯罪で占められている。このような負の側面は、長い歴史が残した根深い問題によって再生産され、抜け出すことが難しい現状がある。
■「この状況から脱したい」、2021年BLMによって再注目された黒人社会
ミネソタ州ミネアポリスでジョージ・フロイトさんが白人警察官に首を圧迫され死亡した事件を受け、全米に広がった抗議運動により再びBLM運動の盛り上がりのきっかけとなった。
こうした問題の背景には、今までのアフリカ系アメリカの人が歩んできた歴史、いまだに残る人種間の不平等や差別、それによって生まれる固定化された経済的困窮が存在する。
1964年の公民権運動の成果は雇用機会均等法を成立させ、黒人や女性、マイノリティーの雇用を大いに促進した。市民権法によって人種差別は禁止され、黒人の投票権の保護なども制定された。しかし、公民権運動を経て約60年が経った今も、白人世帯の平均世帯年収(中央値)は黒人の1.7倍で、黒人の貧困率は20.8%と白人の8.1%の倍以上と格差は開いたままだ。今までの長い差別の歴史の中で社会的に高い地位につく人々が相対的に少ないことで、人脈を使ったビジネスやその他のチャンスを得難くなっている事など、様々な原因が絡み合い貧困から脱することが難しい状況が存在する。
■歌が黒人の心を支えた
K.O.のように自らの境遇を歌にして他者と共有し、それを通じて辛い状況を乗り越えたり、社会に対して声を上げたりすることは今に始まったことではなく、黒人の歴史に”歌”は切っても切れない重要な役割を持っていた。
17世紀に盛んになった奴隷貿易によって多くの人々がアメリカへ連れてこられた当時、奴隷になった人々も歌を歌っていた。強い日差しの照りつける下で一日中働く綿花やたばこ農園では「Field holler(フィールドハラー)」という歌を歌い、鉄道工事や炭鉱などの重労働の中ではハンマーをおろすタイミングに沿って「Hammer songs(ハンマーソング)」を歌い、辛く長い単純労働を乗り切り、複雑な比喩や言葉の意味の二重性を使い、主人にわからないように日々の経験や不満を歌によって共有したという。
1939年に、リンチにあって虐殺され木に吊るされた黒人の死体を歌ったビリー・ホリデイによる「Strange fruit(奇妙な果実)」をきっかけに、多くの白人が南部での深刻な黒人差別の現状を知ることとなった。1968年、黒人歌手のジェームズ・ブラウンが「Say it loud, I’m Black and I’m Proud(みんなで叫ぼう“私は 誇りある黒人だ!”)」と歌い、長い歴史の中で侵害されてきた黒人意識の回復を図ったり、アレサ・フランクリンの代表曲「Respect」が、公民権運動やフェミニスト運動のアンセムとなっていったりと、黒人歌手が活躍しはじめる。
そして、1970年代に入るとニューヨークで“ラップ”が産声をあげる。K.O.の母はまさにこの時代を生き抜き、娘のK.O.はDJであった母親の生きた時代の音楽に強い影響を受けて育った。
初期は特別に政治的なことと強く結びついていたわけでないラップミュージックも、ゲットー(低所得層の居住地域に住む黒人たち)が置かれている状況や、政治的な不満などを歌うようになった。また、彼らのミュージックシーンでの活躍と金銭的な成功は、バスケットボールなど同様、教育の機会に恵まれていなくとも成功し、貧しい状況から抜け出せる数少ない道の一つとして多くの人々に希望を与えるようになる。トップアーティストは何百億円を稼ぎ、その稼ぎの一部を社会活動や学校へ支援をしているアーティストなども少なくない。そのようなラッパーの代表とも言えるのが、K.O.が敬愛し、また今も多くの黒人に愛される“2PAC”だった。
■KOが目指す2PACの生き方
1960年代後半から1970年代にかけて、革命による黒人の解放や地位向上を行おうとした急進的な政治組織「ブラックパンサー党」の党員だった母親のもとに生まれた2PACは、銃を向け合い黒人同士で殺し合う悲惨な状況、DVやドラッグの中で貧しさを再生産していく社会を変えたいと、歌で同士を励まし、何も見ようとしない社会に対し歌を通して彼らのリアルを突きつけた。瞬く間にラップミュージックは世界に広がり、アメリカのみならず世界中で多くの人々の心を動かし、多くの歌い手に影響を与えた。
「あなたは英語を聞き取れなくても、2PACの音楽を聞いて感じるものがあるでしょう?」
そう語ってくれたK.O.は、インタビューが終わると急いで身支度をし、夕日が沈みかける町の中、次の仕事のために車を走らせた。
受賞歴
Asia on film Festival, 国際平和映像祭にてアワード/観客賞受賞,
ロンドン国際映画祭, Short and Sweet film festival, Global Film Festivalにてオフィシャルセレクション
クレジット
監督/撮影/編集
小西遊馬
撮影・編集協力
綿谷達人