憧れの存在と最後のタッグを組んだ武豊。その時、互いが取った行動とは……
ナカノコールのダービーで若き日の武豊が学んだ事
ゴール後、武豊が小さくガッツポーズをした。国内外で数々の大レースを制してきたレジェンドが、平場のレースで見せた珍しい光景。それは自らの喜びの体現ではなく、この日、ターフを去る1人のホースマンへ向けたそれだった。
「今では数少ないあの内側にいた人間ですからね」
武豊がそう述懐するのは1990年5月27日の事。この日、東京競馬場には空前絶後といえる19万6,517人のファンが詰めかけていた。
武豊が乗っていたのは2番人気のハクタイセイ。皐月賞(GⅠ)馬だ。1番人気はその皐月賞で3着だったメジロライアン。鞍上はご存じ横山典弘。当時、武豊が21歳、横山典弘は22歳だった。
彼等に続く3番人気がアイネスフウジン。当時37歳の中野栄治が手綱を取っていた。
勢いに優り、今後の競馬界を背負っていくであろう若き2人に対し、中野はピークを過ぎた感があった。デビュー20年目。前年の勝ち鞍は9つで、デビュー2年目から続けていた二桁勝利数が17年連続で途絶えた。
「体重が重くて、減量に苦しみ、レースに乗る事自体が大変でした」
本人がそう言うように、82年に241回あった騎乗機会は89年には半減以下。105回まで減っていた。
そんな中、出会ったのがアイネスフウジンだった。朝日杯3歳S(GⅠ、現朝日杯フューチュリティS)を勝ち、クラシック1冠目の皐月賞(GⅠ)に挑んだ。しかし……。
「スタートで他馬にヨラれて、番手で折り合った結果、2着に敗れました」
その反省を活かし、ダービーでは「折り合い不問で果敢に飛ばした」(中野)。そして、見事に逃げ切り。19万超の大観衆から伝説の「ナカノコール」が沸き上がった。
当時を振り返るのが、武豊だ。
「自分としてはダービー3度目の騎乗で、初めてチャンスがあるかと思える馬に乗っていました。でも、引っ掛かって前へ行ってしまったため、道中で『勝てるかも……』という手応えが一切ないまま終わってしまいました。中野先生は自信を持って乗られていたのだと思います。僕より速い流れで逃げている中野先生に逆に突き放されて、ペース云々よりもリズムが大切という事を教わりました。勉強になりました」
レジェンドにとっての中野栄治という存在
そもそも騎手・中野栄治は、若き日の武豊にとって憧れの存在だったと続ける。
「競馬学校の壁に中野“騎手”の、鐙が短い綺麗な騎乗フォームのポスターが貼られていて、毎日見ながら『こういうふうに乗れるようになりたい』って思っていました」
時は流れ2024年3月3日の中山競馬場。調教師となった中野は、この日、最後の管理馬を送り込んでいた。第2レースはイーサンハンター。その鞍上にはかつて中野のようなフォームで乗る事を目標の1つとして、レジェンドにまで上り詰めた武豊がいた。そして、見事に先頭でゴールイン。それから少し流した後、ガッツポーズを見せた。武豊は言う。
「ガッツポーズというか、調教師席にいる中野先生へ向けた挨拶のつもりでした」
中山競馬場の調教師席はゴールラインを通過して少しいったところにあった。そこにいる中野に対し、感謝の意を表したポーズだったのだ。
同じ日の第7レースではやはり中野が管理するマウンテンエースに騎乗した。これが調教師・中野にとって、正真正銘最後のレース。レースへ向かう直前に、中野が言った。
「アッという間だったね」
これに対し、武豊が返した。
「本当ですか……」
中野が続ける。
「幸せな調教師人生で、何も悔いはありません。最後の最後に豊君に乗ってもらえて感謝しかありませんよ」
更に武豊が返す。
「いえいえ。こちらこそです。ありがとうございました」
ラストランを目前に、優しい空気が2人を包んだ瞬間だった。
話はまだまだ続きそうな気配だったが、ここで馬が到着。跨った武豊は馬場へ向かい、見送った中野は再び調教師席へと移動した。
調教師席に着いた中野が、双眼鏡は使わずに見守る中、マウンテンエースは3着でゴールイン。残念ながら有終の美を飾る事は出来なかった。上がって来た武豊は中野の姿を見つけると「すみませんでした」と頭を下げた。しかし、それを出迎えた中野の表情は、笑みで満ちていた。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)