「令和闘魂三銃士」の炎上から考える、35年前の「闘魂三銃士」が支持された理由
新日本プロレスは先月30日、オフィシャルサイト上で、海野翔太、成田蓮、辻陽太の3人を「令和闘魂三銃士」と命名することを発表した。3選手は即座に反発、ネット上でもファンの否定的意見が噴出したわけだが、そもそも「闘魂三銃士」とは何なのか?橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋の3人を指す言葉であることは知っていても、成り立ちや歴史については知らない人も多いと思う。そこで、改めて「闘魂三銃士」について解説したい。
プエルトリコで結成
「闘魂三銃士」が結成されたのは1988年7月2日、プエルトリコの首都サンファンであった。橋本と蝶野が武藤の遠征先を訪問して会談を持ったのである。結成に動いたのは橋本で、米国滞在中のアントニオ猪木から「お前らの好きなようにやってみろ」と背中を押されて、同期の2人に声を掛けたのだ。目的は、新日本プロレスのトップにいる長州力や藤波辰巳(現・辰爾)に対抗していくこと。三者会談の様子は全プロレスマスコミで写真付きで報じられ、この時点で「闘魂三銃士」と名付けられた。誰が命名したのかは定かではないが、極めて秀逸なネーミングだったと思う。
3人揃ってインパクト残す
この結成からまもなく3人は揃って帰国。7月29日に有明コロシアムのリングに立ち、6人タッグマッチでインパクトを残すことに成功する。彼らの力量や変貌はもちろん大きかったが、時代の巡り合わせも良かった。当時は所属選手全員が20代のUWFがファンから支持を集めていた頃であり、新日本プロレスにも若いスターの登場が待ち望まれていたタイミングとも重なったからである。「闘魂三銃士」としての帰国はこの1試合限定だったものの、翌年には橋本と蝶野が帰国、さらに1990年には米国で成功した武藤が戻ったことで、3人揃って新日本プロレスのメインイベントに食い込んでいくのであった。
G1で決定づけた三銃士の時代
さらに、三銃士の地位を決定づけたのが「G1 CLIMAX」である。現在まで続く新日本プロレスの人気シリーズは、彼らが揃った翌年の1991年に第1回を開催。優勝を武藤、蝶野、橋本の3人で争ったことで、完全に「闘魂三銃士」が主役となったのである。時代はすでに平成に入って、バブル景気で客入りは右肩上がり。しかも、政界に進出した猪木に代わって坂口征二が社長として経営面の堅調を維持するなど、リング外の環境も味方した。これで、3人ともが20代でメインイベンターとなり、「トップにいる長州や藤波に対抗する」という結成当初の目的は、わずか3年で達成されたのであった。
突然の解散宣言
そんな三銃士だが、実は活動期間は長くない。1993年2月16日、3人でタッグを組んだ試合後、橋本の口から解散が告げられたのだ。「結束している立場じゃなくなった」というのはその日の橋本の言葉で、すでに3人を括る必要がなくなったことは、解散後の彼らの活躍を見れば明白である。のちに橋本がZERO-ONEに、武藤が全日本プロレスに移籍して、本当にバラバラになったわけだが、3人の絆は強く、交流は橋本がこの世を去る2005年まで続いた。会社主導ではなく、自主的に集まって目的を達成したらあっさりと解散する。闘魂三銃士がファンに支持された理由はここにもあるのかもしれない。
※文中敬称略