法律の強制によって生命保険会社を解体するほかない
生命保険は必要な機能ですが、だからといって、生命保険会社から提供されている商品が必要だとは限りません。むしろ、現在の日本においては、生命保険商品の残高は社会的な必要額を大きく超過しているはずで、この無駄を一掃するためには、生命保険会社を解体するほかないのではないか。
日本人は掛け捨てが嫌いという神話
戦後の日本の生命保険は、養老保険から始まりました。養老保険とは、死亡保険金と満期保険金が同額になっている保険で、例えば、契約期間中に死亡すると100万円の保険金が支払われ、死亡せずに満期を迎えても100万円が支払われます。つまり、養老保険には貯蓄が抱き合わされていて、保険料には、死亡保障に要する危険保険料に加えて、100万円の貯蓄に向けての定期積金が含まれているのです。
さて、ここで問題は、保険と貯蓄という全く異なる機能を抱き合わることに、はたして合理性はあるのかということですが、合理性というよりも神話として機能してきたのは、日本人は掛け捨てが嫌いだという仮説です。
掛け捨てという表現には、捨てというところに否定的な意味が込められています。しかし、生命保険の死亡保障は相互扶助の原理に基づくのであって、幸運なことに死亡しなかった人の保険料は、不幸にも死亡した人の保険金に充当されるのですから、そのことをもって保険料を捨てると表現することは不当です。
むしろ、掛け捨てという表現は、養老保険においては保険料が戻ってくるとの印象を与えるために、生命保険会社の営業政策の都合で使われていたのではないかと思われます。しかし、いうまでもなく、保険料が戻ってくるというのは誤解を与える表現で、保険本来の保険料とは別に積立てられていた貯蓄部分が当然の権利として戻ってくるだけなのです。
保険を売りやすくする仕組み
実は、死亡保障は非常に営業しにくいものです。なにしろ、契約者は、自分の死という考えたくもない危険について、合理的精神の働きによって心理的抵抗を克服したうえで想定し、更に自分の死後の家族の生活保障という実感しがたいものの必要性を認識して、保険料を支払うのですから、その加入勧奨を行うことは難しいのです。
それに比して、貯蓄の営業は簡単です。養老保険は、理屈上は、保険に貯蓄を抱き合わせたものですが、実際上は、貯蓄に保険を抱き合わせることで、生命保険の普及促進を図るための導入部の工夫だったのだと思われます。事実、その後、物価と所得の上昇に伴い、養老保険は、死亡保障額を満期保険金額の数十倍にした定期付き養老保険に姿を変え、貯蓄から保険に脱皮していきます。
しかし、経済成長が鈍化し、更には超成熟経済に至った今日では、逆に死亡保障の必要性は低下しているのです。
不要な生命保険
昭和においては、家計の主体は、扶養家族として配偶者と複数の子供をもっているのが普通で、万が一のときに必要となる保障額が大きかったうえに、所得の上昇に伴って生活水準も向上していたので、必要保障額は増大していたわけですから、生命保険業界は、死亡保障の量的拡大により、自然に成長できたのです。
しかし、現在では、少子化により、また夫婦共働きが普通になることで、必要保障額は低下していますし、更には、住宅ローンがあっても団体信用生命保険で住宅が資産として残ることを考慮するときは、それに加えて死亡保障を付すことの過剰感は否めません。
しかし、現実には、高齢者の死亡保障のように、必要性のない生命保険が多数存在しています。その背景には、歴史的な経緯のもとで、生命保険にだけ認められた特殊な税制が存在していて、業界では、その税務上の利益を得る目的での商品開発が横行していることがあります。必要性のない高齢者の死亡保障は、相続における優遇税制の適用を得るために利用されているのであって、こうした事態は、生命保険の社会的機能にも、優遇税制の本来の主旨にも反しています。
貯蓄を保険で包む弊害
貯蓄を保険で包むことも不必要な保険を増やしています。そもそもの原点において、保険は、養老保険という貯蓄として始まったわけですが、その後、死亡保障の必要性が認知されるとともに、定期付き養老保険という保険らしい保険に脱皮したのです。ところが、逆に死亡保障の必要性が低下し、超高齢化社会のもとで老後生活のための資産形成の重要性が増すとともに、保険は再び貯蓄へと回帰しているわけです。そこで、改めて保険に貯蓄を内包させることの合理性が問題になります。
例えば、終身保険は死亡保障と貯蓄性を上手に融合させたものです。死亡保障の必要額は、時間の経過とともに家族構成等が変わるにつれて変動していき、年金生活者になれば極めて小さくなりますが、そのとき、大きな保障額の終身保険に加入していたとすれば、不要となった保障額相当の責任準備金に対応した解約返戻金について、老後生活のための貯蓄としての意味を与えることで、死亡ではなくて生存という危険に備えるものに機能転換できるわけです。
しかし、確かに、一方では、こうした終身保険の仕組みは理に適っているといえますが、他方では、問題点として、第一に、理論的な貯蓄額である責任準備金に対し、解約控除によって実際に入手し得る返戻金額が少なくなること、第二に、貯蓄部分に適用される予定利率が低いこと、第三に、手数料等の費用が不透明であることを指摘できます。
保険と貯蓄の分離
家族構成等との関係で大きな死亡保障額を必要とする期間は限られているので、そこを定期保険で対応すれば、保険料は終身保険よりも低くなりますから、その差額は投資信託を使った資産形成に充当できます。こうして、保険と貯蓄を分離すれば、解約返戻差額や諸費用の不透明性を排除でき、投資信託の選別を上手に行うことにより、保険の予定利率以上の収益を期待できるのです。
また、生命保険業界においては、投資信託や外貨建て貯蓄を保険で包んで保険商品に仕立てることが横行しているのですが、生命保険会社の利益は容易に理解できますし、諸費用等が不透明性になる顧客の不利益も明瞭ですが、さて、どこに顧客の利益があるのかは不明です。生命保険会社の利益の視点での保険と貯蓄の抱き合わせは、顧客の利益の視点において、分解されるべきです。
保険は、純粋な保険として提供されることで、保険料の水準が低くなり、保険料の内訳が明らかになって、顧客本位なものになります。また、保険が過剰になる主因は、住宅ローンと結合していて、また貯蓄と抱き合わせになっていることにあるのですから、顧客にとって、必要な保障額を必要な期間だけ得られるようにするためにも、保険の純化は欠かせない要件です。
生命保険会社の解体
社会構造の変化に伴い、死亡保障に対する需要が減退し、豊かな老後生活のため、あるいは他の多様な目的のための資産形成の必要性が拡大してくるなかで、生命保険会社が自分の存続のために強引に資産形成を保険のなかに抱きこもうとするから、必然的に顧客の利益を損なうことになるのです。
この弊害を回避するためには、生命保険会社の業態を転換させればよく、事実として、傘下に投資運用業者をもつことで、投資信託による資産形成の事業を行っている例があるわけですが、問題は、その投資運用業者の経営に独立性がなく、独自の事業展開ができないなかで、生命保険会社本体における保険と貯蓄の抱き合わせについて全く自制が働いていないことです。
また、相互会社という特殊な法人形態にも問題があります。相互会社というのは、契約者が保険会社を所有する構造で、保険の原理が契約者間の相互扶助であることに基づいています。これに対して、資産形成は完全に個人主義に基づくもので、相互扶助の原理とは相容れないものですから、事業の重点を資産形成に移すのならば、相互会社を株式会社化する必要があるでしょう。
法律の強制
生命保険会社の現状において顧客本位の徹底が不十分であることについては、かねてより金融庁が問題にしてきたはずですが、改革に少しの進展もみられない以上は、法律の強制を視野にいれていいのではないでしょうか。しかし、金融機関の自律的改革を促すという金融庁の基本方針を変えてはならないので、法律の強制は必要最低限にとどめられるべきです。
その最低限のこととして、持株会社のもとでの事業再編は必須の要件だと思われます。残念ながら、生命保険会社の経営者によっては、自分自身の改革は不可能だといわざるを得ないので、上部に親会社をもつほかないのです。故に、形式だけの持株会社化には何の意味もなく、持株会社の経営と傘下の生命保険会社の経営の完全な分離も必須要件です。
次に、保険の純化こそが決定的に重要なことで、投資運用業等の保険以外の事業は全て持株会社の直下に移動させるべきです。更には、特殊な保険税制の廃止や、商品開発における貯蓄性の規制なども検討されなければならないでしょう。