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【戦国こぼれ話】羽柴(豊臣)秀吉は、なぜ「紀州攻め」を実行したのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
根来寺。かつて、根来寺は秀吉と激しい戦いを繰り広げた。(写真:ogurisu/イメージマート)

 羽柴(豊臣)秀吉に最後まで抵抗した紀州山本氏の動向が冊子にまとめられたという(「上富田文化財」増刊号)。秀吉の紀州攻めは有名であるが、なぜ実行したのかを考えてみよう。

■織田信長死後の情勢

 天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺で横死すると、これまで信長に従っていた根来衆は態度を一変させた。そこには、当時の複雑な政治情勢が絡んでいた。

 信長の没後、秀吉と徳川家康・織田信雄は対立の様相を見せるが、根来寺(和歌山県岩出市)や紀州の国衆・湯河氏は、あろうことか秀吉と距離を置くようになった。むしろ家康側に与したのである。

 こうして秀吉は、根来寺を中心にした敵対勢力に対して、強い警戒心を抱くようになる。では、なぜ秀吉は根来寺などの紀州勢を脅威に感じていたのだろうか。

■秀吉が根来寺を恐れた理由

 秀吉が根来寺を警戒した理由は、彼らが軍事力となる僧兵を組織し、鉄砲などの武器を所有していたからだった。また、彼らは450といわれる坊院を持ち、5000人以上の僧兵を擁していた。この軍事力は、戦国大名も顔負けである。

 さらに、根来寺は寺院とはいいながらも、その作りは城塞と変わらない機能を備えていた。まったく油断ならない相手だったのだ。

 ところが、秀吉と家康・信雄が和睦を結ぶと、情勢は一変した。根来寺は家康という後ろ盾を失ったのである。それでも秀吉は紀州の動きを注視し、ときに小競り合いに及んでいた。

■紀州征伐はじまる

 天正12年(1584)3月に根来寺を中心とする勢力が和泉を襲撃すると、両者は決定的に対立することになり、秀吉はついに紀州征伐を決意する。

 同年3月20日、紀州攻めを敢行した秀吉は、怒涛の勢いで敵勢力をなぎ倒した。手始めに根来寺・雑賀衆が拠る和泉国千石堀城(大阪府貝塚市)を落城させると、その勢いで次々と諸城を攻め落とした。もはや紀州勢力は風前の灯であった。

 そして、同月23日になると、秀吉勢は根来寺に火を放って炎上させた。その燃え盛る様子は、3日間も空が赤く輝き、貝塚(大阪府貝塚市)にあった本願寺からも確認できたといわれている。

 ただし、根来寺が炎上したのには、①秀吉による焼き討ち説、②根来寺が自ら火を放った説、③放火あるいは失火の説、という3つの主要な説がある。なお、雑賀衆は秀吉の圧倒的な軍事力の前に、内部から崩壊していった。

 こうして秀吉の軍勢は、一気に紀州の主要な勢力を潰滅させ、残るは太田城(和歌山市)に籠る抵抗勢力だけになったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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