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36歳でJRA重賞初制覇を飾った苦労人を出迎えてくれた恩人との思い出とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
アブレイズでフラワーCを優勝しJRA重賞初制覇を飾った藤井勘一郎騎手

オーストラリアで騎手となり大活躍

 「よっしゃー!!」

 無観客の中山競馬場にジョッキーの叫び声がこだました。

 叫んだのは藤井勘一郎。3月20日、アブレイズに騎乗してフラワーC(G3)を優勝。これが36歳での嬉しいJRA重賞初制覇。35歳だった昨年、JRAの騎手となった苦労人が、脱鞍所に戻ると、1人の男が「おめでとう」と声をかけた。

 「ありがとうございます」

 藤井は“恩人”に対し、姿勢を正してそう答えた。

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 1983年12月31日、藤井は奈良県で生まれた。父・謙昌、母・早苗。2歳上に姉が1人という家庭で育てられた。小学生の頃に読んだ漫画の影響で競馬に興味を持った。中学では陸上部に入ったが「これも騎手になるための体力作りのつもり」だった。しかし、体重が増えたためJRAの受験は諦めた。

 「中学を卒業してオーストラリアへ飛び、ゴールドコーストにある競馬学校に入学しました」

 1年後にはシンガポールで研修。再度、オーストラリアへ戻ると、2001年のクリスマスイヴの日、ついに初騎乗がかなった。

 「4頭立ての3着という結果だったけど、パドックで跨った時の風景は今でもはっきりと覚えています」

 2週間後には落馬で顎の骨を骨折。2か月休む事になったが、復帰戦でいきなり初勝利。すると波に乗った。

 「06年までの5年間で200近く勝って2年連続で見習いリーディングの2位になりました」

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ビザが切れて帰国。伯楽と出会う

 将来の伴侶となる女性にも出会い順風満帆と思われたが、風向きが変わった。ビザの関係で帰国を余儀なくされたのだ。

 帰国後は当時、オーストラリアでも騎乗経験のあった故・青木芳之に藤沢和雄を紹介してもらった。それが縁で美浦トレセン近郊の伯楽が利用する育成牧場・ミホ分場で研修がてら働いた。

 「藤沢先生には多くの事を学びました」と語る藤井に、最も印象に残っている事は何か?を問うと、次のように答えた。

 「僕はオーストラリアで見習い騎手として成功したけど、減量が無くなって苦労した時期がありました。それで藤沢先生に助言を求めました」

 以前はオリビエ・ペリエやケント・デザーモ、国内でも岡部幸雄や横山典弘といった名手の梁山泊のような厩舎の指揮官に、若き日の藤井は聞いた。

 「一流騎手とそうでない騎手の差はどこにあると思いますか?」

 聞きながら彼は次のような答えが返ってくると考えていた。

 「『フィジカル面』とか『技術』が違うんだろうな……」

 しかし、そんな推測に反し、藤沢の口をついたのは思わぬ答えだったと続ける。

 「オリビエにしてもケントにしても貪欲さが違ったよね。彼等はどんな状況でも絶対に諦めなかったよ」

藤井が恩人と慕う藤沢和雄調教師
藤井が恩人と慕う藤沢和雄調教師

 この言葉が、その後の藤井を幾度となく助ける事になった。

 韓国、シンガポール、南関東、そしてまたオーストラリアでも乗った。吉澤ステーブルやノーザンファームでも乗った。負ける事が圧倒的に多い競馬だから、どこへ行ってもそれなりに辛い目にあった。それでも貪欲に上を目指し乗り続けた。怪我で休養中もヨーロッパの各国や香港、マカオの厩舎も訪ねた。JRAの試験は何度受けてもふるいにかけられたが、それでも絶対に諦めなかった。その結果、難関を突破。19年3月からJRA所属の騎手になれた。

 「受験自体は6回目での合格でしたけど、最初に試験を受けてからは10年近くかかりました。その間、村山(明)調教師や矢作(芳人)調教師、そして藤沢調教師の下でも研修をさせていただきました。それら全てが身となって合格出来たのだと思っています」

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嬉しいJRA重賞初制覇を出迎えた藤沢の表情は……

 JRA入り後は先出の調教師の他に池江泰寿にもお世話になりっぱなしだと続ける。

 「オーナーを始め沢山の方を紹介していただきました。もちろん良い馬にも数多く乗せていただき、感謝しかありません」

 そんな中、巡り合ったのがアブレイズだった。2月2日、京都競馬場、芝2000メートルの新馬戦でコンビを組みデビュー勝ちを果たすと、このフラワーCに駒を進めてきた。

 「初戦でも乗せてもらい、ある程度特徴は分かっていたのでスタートさえ決められれば行こうと思っていました」

 実際にゲートが開くとフライング気味の好発を決め、2番手につけた。

 「まだ2戦目なのでレース慣れをしていないせいか、モノ見をしてフワフワ走っていました。それがかえって良かったのか、力まずに息が入りました」

 直線に向き、追うと伸びた。そのまま先頭でゴールに飛び込むと自然と「よっしゃー!!」と声が出た。

嬉しいJRA重賞初制覇。ゴールの瞬間、思わず「よっしゃー!!」と声が出た
嬉しいJRA重賞初制覇。ゴールの瞬間、思わず「よっしゃー!!」と声が出た

 「こういう舞台に立ちたくてやってきました。ついにJRAの重賞を勝てたと思うと叫んでしまいました」

 引き上げてくると、恩師・藤沢和雄が笑顔で出迎え「おめでとう」と言ってくれた。ここからは藤沢の弁。先述した通り、藤井がミホ分場で働いていた当時、叱った事があったと言う。

 「『世界中あちこちで乗るのはそれはそれで素晴らしい事だとは思う。ただ、一緒について行く奥さんや子供の事も考えろ。経験は積んだだろう? 次は腰を据えて乗れるようにもっと真剣に取り組め』って伝えました」

 そんな叱咤を受けてJRAの騎手となった。なれた。重賞初制覇を飾って引き上げて来た藤井を、藤沢は2着馬の脱鞍所で出迎えた。藤沢がこのレースに送り込んだレッドルレーヴはアブレイズに4分の3馬身及ばぬ2着に敗れていたのだ。藤井の恩返しを思わぬ形で受け取った藤沢。コロナ騒動によりマスクを装着していたため表情は分からなかったが、白い布越しに笑顔が見えた気がした。

藤井にとって初めてとなるJRA重賞での口取り
藤井にとって初めてとなるJRA重賞での口取り

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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