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【京都市】中京区 二条城前にある『橋本左内寓居跡』の石碑

高津商会RICALIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

世界遺産『二条城』では、四季折々の季節に合わせた顔を見れます。桜が綺麗な時期には「高津商会」でも小道具たちがテレビの撮影でお世話になったり、秋の紅葉には多くの人が紅葉狩りで訪れます。

その『二条城』を堀川通わたり、ホテルが立ち並ぶところに石碑が一つ。

『橋本左内寓居跡』とありました。

『橋本左内』とは、幕末の志士で福井藩士。安政5年(1858)2月から4月まで、この地にあった福井藩邸に居住していたそうです。お父さんが藩医だったことから、大坂で『緒方洪庵』の適塾にて医学・蘭学を学びました。『橋本左内』の性格は謙虚かつ温和であり、一度も人と争ったことがなかったと史実にあります。西郷隆盛らとも交流があったそうですよ。

では、なぜ二条城の目の前に寓居を構えていたのか…幕末の志士であることが関係あります。

将軍の継嗣問題がおこると、一橋(徳川)慶喜 (よしのぶ) を将軍に立てるため、京都で運動活動をしていたそうです。

それが当時の藩主であった松平慶永 (よしなが) の命によるものだったとか。

横井小楠を招くなど福井藩の藩政改革の中心でもあった『橋本左内』。重大な責務を任されていたのですね。

左内は井伊大老の就任により牢舎に入れられ、1859年安政の大獄によって死刑に処せられてしまいます。

その時26歳という若さの『橋本左内』でした。死刑の理由が「私心でやったのではなく藩主の命令である」と主張したことが、井伊の癪に障ったとか。当時の武士の理論では、志士が藩主をかばうのが当然だったという理由だそうで…当時の厳しい思想が伺えます。

「男子たるものが憂慮するところは、ただ国家が安泰であるか危機に直面しているかという点のみ。」( 橋本左内『啓発録』より)

「高津商会」の小道具たちも、幕末のドラマや映画などでも活躍してきて100年以上たちます。作品をたくさん見ているつもりでも、まだまだ知らない史実がたくさんありますね!京都の石碑巡りは史実を知るのに、すごく勉強になります♪

橋本左内寓居跡
場所:京都市中京区二条堀川下る東側矢幡町

LIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都で生まれ育つ。世界各地を周遊、欧米中心に20年ほど滞在し京都に帰還。日本のコアな伝統文化や芸能、神社仏閣や裏歴史、催事らを国内外の旅サイト・雑誌・新聞で執筆。経験に基づく“陰謀説”の電子書籍出版あり。フォトジャーナリスト、写真映像家、音楽・イベントプロデューサー、特殊ツアープロデュース・ガイドから日本庭園庭師までマルチに活躍。日本映画の発祥時より美術に携わってきた”ジャパニーズハリウッド”京都太秦にある老舗『髙津商会』にて映画・美術装飾・アート&エンタメ、海外事業に携わりつつ伝統文化・芸能などに関わる史実や古美術らについて勉強中。『京愛』や『日本愛』を深め世界進出を夢見る毎日。

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