【戦国こぼれ話】「軍師」竹中半兵衛が主の斎藤龍興を稲葉山城から追放した意味について考えてみる
最近、北海道の消防署で逆パワハラ(部下が上司にパワハラすること)が発覚した。戦国時代においても、竹中半兵衛が主の斎藤龍興を稲葉山城から追放したことがある。その意味については、どのように考えたらいいのだろうか。
■竹中半兵衛とは
竹中氏の先祖は美濃国大御堂(岐阜県大野町)の出身で、同国の守護・土岐氏に仕えていた。竹中半兵衛重治の父・重元が誕生したのは、明応6年(1497)のことである。土岐氏が衰亡したのちは、斎藤道三とその子・義龍に仕えた。
重治が誕生したのは天文13年(1544)で、もとの名前は重虎といった。重治が竹中家の家督を継いだのは、永禄3年(1560)または永禄5年(1562)と考えられている。父が亡くなったからか、あるいは隠居によるものなのか定かではない。
弘治2年(1556)、道三・義龍父子が互いに戦うと、重元は道三に与した。結局、道三が敗北すると、重元の屋敷に義龍の軍勢が押し寄せた。当時、13歳だった半兵衛は、弟・久作や母とともに軍勢を追い払ったという。この頃から重治は、軍事的に優れた能力を発揮したといえよう。
永禄元年(1558)、重治は父・重元とともに敵対する岩手弾正道高を攻め、岩手城(岐阜県垂井町)を手に入れた。以降、竹中氏の本拠地は岩手城になったのである。
重治が14・5歳の頃、安藤守就の娘を妻として迎えた。守就も最初は土岐氏に仕えていたが、のちに道三の配下に加わった1人である。稲葉良通や氏家直元とともに「西美濃三人衆」と称された。
永禄4年(1561)5月に義龍が病死すると、子の龍興が後継者になった。義龍の死を知った織田信長は、ただちに美濃へ侵攻した。こうした不安定な政情の中で、重治は史上にあらわれるのである。
なお、重治は「軍師」と称されるが、「軍師」なる言葉は戦国時代にはない。
■稲葉山城の奪取
重治を語るうえで欠かすことができないのは、稲葉山城(のちの岐阜城)の奪還作戦である。
諸書の伝えるところによると、重治は永禄7年(1564)1月、稲葉山城に参賀のため登城した。その帰途、重治は斎藤飛騨守の配下の者に城壁から小便をかけられたという。
このとき重治は、堅く侮辱を晴らすことを誓ったといわれ、この事件が稲葉山城の乗っ取りへと繋がったのである。しかし、この話はあまりに荒唐無稽であり、そのまま事実と受け取るわけにはいかないだろう。
同年2月6日、重治は舅の守就とともに、白昼から堂々と稲葉山城に乗り込んだ(『竹中家譜』など)。そして、斎藤飛騨守を切り伏せると、あっという間に占拠してしまった。龍興が稲葉山城を脱出することにより、西美濃一帯は内戦状態と化したのである。
乗っ取り方法は別として、重治らが稲葉山城を占拠したのは事実である。下克上の気風が高まる中、器量のない龍興を追放して諸勢力を糾合し、クーデターを実行に移したのである。
その後の重治の動きは、拡大的な志向を持っており、信頼性の高い一次史料で確認が可能である。6月以降、重治は徳山氏や国枝氏に書状を送り、越前の朝倉氏と結ぶための交渉役を依頼した。同時に美濃国一帯に軍事行動を展開していることを確認できる。しかし、信長と結ぼうとした形跡はない。
重治による稲葉山城占拠は、同年8月頃まで約6ヵ月間続いた。『甫庵太閤記』によると、信長が重治に美濃半国と稲葉山城の交換を要求した際、重治は「龍興に反省を促したのであって、一時的に城を預かったまで」と返答したという。結局、城を龍興に返還した重治は、隠棲したといわれている。
■実際はどうだったのか
重治が前面に出てしまいがちであるが、最近の研究では舅の守就の勢力が大きかったので、守就の主導によるクーデターであると考えられている。守就らは奇襲により稲葉山城を奪ったものの、龍興らが抵抗し続けたため、意外に勢力が広がらなかったのだ。
そうした閉塞感もあり、重治らは稲葉山城を放棄せざるを得なかったというのが実情である。「龍興に反省を促すため」という理由は、後世の逸話にしか過ぎない。
甲斐国恵林寺(山梨県甲州市)の高僧・快川の書状には、一連のクーデターに関する感想が書き記されている。快川は龍興の稲葉山城脱出を喜ぶとともに、重治と守就の行為に強い不快感を示している。2人の行為が美濃一国に広がらなかったところをみると、周囲から賛同されなかったのだろう。