失言大臣、泣く大臣、ぶちキレ大臣、守る首相の顛末とは?
安倍内閣の失言・暴言ラッシュが止まらない。
- 山本幸三地方創生担当相「一番の“がん”は文化学芸員。この連中を一掃しないとダメだ」発言。
- 今村雅弘復興大臣の「自己責任」発言とブチキレ会見。今日、再びキレた。
- 金田勝年法務大臣は「ちょっと、えー、私の頭脳というんでしょうか、えー、対応できなくて申し訳ありません」とポロリとホンネを言ってからは「成案を得てから説明したい」と壊れたレコードのように繰り返し、今国会では「霞が関の各省が提案した法案であるならば、その実務に詳しい責任者が答弁を重ねるという事は、非常に重要なんであります」とあっけらかんと言い放ち、法務省の刑事局長を政府参考人に招致した。
- 稲田朋美防衛大臣はちょっと突っ込まれると泣くし、「ISIL(イスラム国)をめぐるシリアの内戦は戦闘か、衝突か」と質問されれば、「法的評価をしていない」と繰り返すだけで、安倍首相が代わりに回答。
- また、大臣ではないが、類似の例はいくつもある。昨年、台風10号の豪雨被害で岩手県岩泉町を視察した務台俊介・内閣府政務官兼復興政務官は、政府の職員におんぶされて被災現場の水たまりを渡り、懲りもせず「長靴業界が儲かった」と発言。結局、辞任した。
ふむ。これが我が国の大臣たちである。いったい何のためのリーダーなのか。
え? 大臣はリーダーじゃない、って?
いやいや、そんなことはない。
少なくとも組織を率いるリーダーとしての「権限」と「報酬」が与えられている。国務大臣の俸給月額146万6000円。期末手当(ボーナス)476万円。年収は約2900万円。さらには、国会議員として文書通信交通滞在費が1200万円、立法事務費が780万円……。これが「大臣」という地位に与えられている「力」だ。
大臣はこの「力」を正しく使っているのだろうか? 「力」を正しく使うだけの資質があるのだろうか?
民主党政権(現・民進党)時代も、「さすが!」と尊敬できるリーダーには残念ながらお目にかかれなかったけど、当時と今が違うのは「問題になったリーダー」が居座り続けること。
もちろんなんでもかんでも辞めればいいわけじゃない。
が、起こした問題を曖昧にし、何事もなかったように「力」のあるポジションに居座り続けるのは「無責任な力の行使」だ。
そもそも「力」には二種類の意味がある。
一つは、何かをする「力の所有」で、これはその個人に内在する潜在能力である。そして、もう一つが、他者に対する「力の所有」で、これは地位が持つ支配する力だ。
適材適所ということから考えれば、前者の「力を所有」している人がリーダーになるべき。が、実際にはその地位に求められる潜在能力なき人が、地位が持つ支配する力だけを手に入れている場合が多いように思う。
この状態がいかに危険なのか?
それは「世界最悪の残酷な人体実験」のひとつ、スタンフォード監獄実験でわかる。(「es」という映画にもなったのでご存知の方も多いかもしれないけど、以下概要)。
1971年、米海軍の海兵隊刑務所で相次ぐ問題を解決するために、米スタンフォード大学の心理学者フィリップ・G・ジンバルド博士らは、同大学の講堂で、模擬的な監獄(=刑務所)シミュレーションを実施した。
新聞広告によって集められた心身ともに健康な被験者24人を、無作為に囚人役と看守役に割り振った。被験者には「刑務所とほぼ同じ環境の中で、2週間を過ごしてもらう」ことだけを告げ、囚人役にはそれぞれID番号が与えられ、互いに番号で呼び合うことが義務づけられた。囚人は粗末な囚人服を着せられ、一部の囚人役は手足を鎖でつながれた。
一方、看守役には制服と木製の警棒と、ミラー型のサングラスが手渡された。実験初日。何事もおきなかった。が、2日目に変化が起こる。
普通の人が極悪なことをする組織のシステム
囚人役の被験者たちが、乱暴な言動で、看守たちを困らせた。看守役の被験者たちは“囚人”たちを鎮めるために虐待行為を始め、その虐待は次第にエスカレートしていったのだ。3、4日と経過すると看守たちは囚人をまる裸にしたり、トイレ掃除を素手でやらせたり、そこで性的な虐待をし、精神的にも肉体的にも囚人たちを追い込んだ。
そして、実験開始から1週間足らずで、危険を感じた博士らは実験を中止。「これ以上続けたら、取り返しのつかないことになる」という理由だった。
なぜ、こんな事態になってしまったのか? 実験の正当性や倫理性も含め、様々な意見や議論が出た。「衣服や監獄という物理的な環境が人間の行動を変えた」という意見もあれば、「人間の深層心理に潜む攻撃性が、囚人と看守という立場の違いによって刺激された」とする研究者もいた。
そんな中、唯一多くの人たちの見解が一致した点があった。それは「所属する組織のシステムによって、普通の人が極悪なことを平気でしてしまう。力には二面性がある」ってこと。
繰り返すが、看守役は一般の人。なにひとつ看守に求められる知識も見識も能力も持ち合わせていない人たちである。と同時に、これは心理実験であるため、看守はいっさい自分の言動に「責任」を負わされていない。
つまり、この実験は「悪しきシステムが善良な人を変えてしまう」という教訓を示唆し、「その地位に求められる潜在能力なき人が、地位が持つ支配する力だけを手に入れた時の恐ろしさ」を教えてくれたのだ。
「支配する力」ほど、人を狂わす恐ろしい“武器”はない。そもそも潜在能力を持つ人は、他者を支配する力など持たなくても、他者に影響力を及ぼすことができる。
これを実証したのが、米コロンビア大学で行われた実験である。
この実験では、互いに面識のない人たちを集め、ある課題の解決策を議論してもらった。被験者たちは最初に、各々が個人的に「解決策」をいくつか練り、その後、グループディスカッションを行い、グループとしての「回答」を決めてもらった。
話し合い終了後、参加者たちに「メンバー1人ずつの評価」を依頼。評価は2つの軸に分けた。一つ目が「支配する力」に関するもので、その人が「強引だったか?」「恐ろしかったか?」「高圧的だったか?」など。二つ目は「潜在能力」に関するもので、その人の「能力は高いと思うか?」「傾聴に値する人物だったか?」「尊敬できるか?」などを、それぞれ評価してもらったのだ。
その結果、「支配する力」の高い人ほど影響力が高く、メンバーたちが彼の意見に従っていたことが分かった。そして、それと同等の影響力が「潜在能力」の高い人にもあることがわかった。メンバーたちは、「潜在能力」が高い人に魅かれ、好意を抱いていた。一方、「支配する力」の高い人の意見には同調はするけど、その「人」のことを嫌っていることもわかったのである。
この実験では、どうやって「支配する力」の高い人たちがメンバーを従わせたのかは把握できていない。
脅したのかもしれないし、アメをぶら下げたのかもしれないし、強引に自分の意見を押し通したのかもしれない。
だが1つだけ明らかなのは、能力の有無に関係なく「支配する力」は機能するということ。
でもって、潜在能力の高い人は「支配する力」を外部から与えられなくとも、周りに影響力を与えることが可能、ということだ。
「支配する力」という言葉にはネガティブな印象を受ける。だが、2つの心理実験が教えてくれるのは、問題は「個人」の潜在能力で、その能力がない人=資質なき人がリーダーになったとき、組織のメンバーの満足感は低下し、モチベーションも下がり、投げやりになる、という事実だ。
メンバーは考えるのを止め、言われたことに従い、リーダーはますます横暴な態度で人を見下していく。
どんなに間違った方向に向かっても決して修正されることなく、気がついたときには無責任な結末に終わる危険性が高まっていく。
このリスクを防げるのはただ1人。リーダーを任命する人だ。すなわちトップの資質が極めて重要なのだ。
そのポジションに求められる能力はナニか?
その能力を有しているのは誰か?
大臣という地位に必要な資質はナニか?
復興大臣に求められる資質とはナニか?
それをきちんと考え、見抜く力。その資質をトップは持っているのか?
安倍首相はこれまで大臣の失言や失態の度に「全力で職務に取り組んでもらいたい」と繰り返してきたが、ならばなぜ、“大臣”にふさわしいのかを説明して欲しかった。
辞めさせるだけが責任をとることではない。しかしながら、誰もが納得できるように説明するのも、ひとつの責任のカタチだ。
あるベテランの政治記者の方が興味深いことを教えてくれた。
「いろいろと問題になっている大臣はすべて、安倍さんと同じ考えを持つ人たちだ」と。
「他にもたくさん“能力”ある政治家たちがいるのに、同じ考えの人たちしか選べない安倍さんの資質も問われるべきだ」と。
人事がすべてを決めるといっても過言ではない。能力なき人がなんらかの問題を犯した時、しわ寄せがいくのは常に末端の人たちであることを忘れてはならない。