この「完璧な北欧」で何を否定するの?「北欧的否定」という抑圧的な構造
北欧に住むマイノリティが現地で暮らす困難さを口にする時、現地の白人には理解してもらえないことがある。時には被害者の正気や認識を疑うように仕向ける心理的虐待「ガスライティング」をされることもあるだろう。一体何のことか、北欧に長く住んだことのある非白人の多くは想像はできるだろう。でも、これは現地では話題にしにくい。したら面倒だし、言われた北欧の白人の中には嫌な思いを抱き防衛的になる人もいる。現地で短期的に「平和に」暮らすなら(長期的には社会構造の解決にはつながらないが)、北欧の「ホワイトネス」、白人至上主義については触れないほうが楽ではある。極右政党の特長としてのホワイトネスは議論しやすいが、一般市民に内在化されているホワイトネスという特権については話が複雑になりやすい。こういう社会で、顔や名前を出してホワイトネスの問題点について発言する人がいると、その勇気に筆者は驚き、リスペクトの念も抱く。
なぜ幸せな北欧で暮らしているのに、私は落ち込んでいるの?
「北欧的否定」(Nordic Denial)というポッドキャストを配信しているのは、ナイジェリア人としてノルウェーに住むChisom Udezeさんと、南アフリカをルーツとするデンマーク人Thandi Dyaniさんだ。経済学者であるChisom Udezeさんは、多様で包括的、すべての性別のための共創コミュニティ「HerSpace」を設立し、3大陸7カ国に住み、働いてきた経験がある。Thandi Dyaniさんは、アフリカ地域と北欧の外部ネットワーク・オーガナイザーとして、リーダーたちと共に責任あるリーダーシップを鼓舞し、SDGsに沿った変化を促進するために活動している。
二人が提案する「北欧的否定」(Nordic Denial)という構造はこういうものだ。ジェンダー平等と呼ばれる北欧の素晴らしい取り組みの背後には、まず「白人女性」という規定がある(ということさえ認めない北欧の白人はいるが)。だが北欧に住む有色人種の女性の体験は異なる。しかし、「北欧の高い生活水準・教育水準・信頼」と「人種差別」は相反するものだ。「人種差別が考えられないこと」「その結果として」ジェンダー平等は機能する。平等には「肌の色」が関与していることを、北欧では公では認められない。
「私はあなたの肌の色ではなく、あなたを人としてみている」「人種差別はここでは問題ではない」「私には移民や黒人の友達がいる」という発言や態度に北欧では出くわす。「他人の肌の色から目を背けることは、有色人種の体験を無視することである」という認識はさほど広がっていない。北欧には「私たちは共通の課題を理解し、共通の場所があり、共に行動し考えている」という「コンセンサス文化」が強いために、有色人種が口にする不快な体験は議論に値しないもとのとして、非可視化され、真面目に取り扱われない。ノルウェーに引っ越してきた黒人女性やアジア人が現地で苦しんでいても、「この幸福な国でなぜ?」と「あなたがおかしいのでは」とガスライティングされたり、「嫌ならこの国から出ていけ」とその会話はなかったもののようにされる。
北欧の白人は、自分たちが持つ「ホワイトネスという特権」にまっすぐに向き合おうとしない。「私たちのすることは全て正しい」「北欧モデルや北欧アプローチというような素晴らしいシステムで、『あなたは幸せなはず』だ」。この国で幸せになれない人の体験は否定される。幸せを感じられない人はどこかおかしい・文句や不平不満が多いかのように扱われ、当事者は自分の感情に複雑な思いを抱く。非白人の外見や背景があると、アウトサイダーのような感じを背負い、この社会にフィットしていない自分に悩む。このような抑圧的構造をChisom UdezeさんとThandi Dyaniさんは「北欧的否定」(Nordic Denial)と名付けた。彼女たちのポッドキャストを聞くと、「あ、わかる」と筆者が「うんうん」とうなづく体験やフラストレーションが共有されている。同時に、北欧の白人の人が聞くかもしれない内容を発信していることに「勇気がある」と驚く。筆者にはそれに向き合うエネルギーがないからだ。
9月末のオスロ・イノベーションウィーク中、「ダイバーシファイ北欧サミット」が開催され、ふたりはここで「北欧的否定」をテーマに登壇していた。
Thandi Dyaniさんは、サミット前に「北欧の否定」というテーマで話すと上司に告げると「この『全てが機能しているこの完璧な社会で、一体何を話すというの?』と言われたそうだ。それはまさにThandi Dyaniさんが、そして北欧に住む多くの移民やマイノリティに属する人なら眉をひそめる発言だろう。だが、実際に北欧に住む白人ほど、本気で悪気なくこう思っている人もいる。
北欧で否定される体験、共有されない「素晴らしい北欧」
昨年オスロ大学大学院のサマースクールで「北欧のジェンダー平等」を履修していたのだが、筆者のグループトークでオスロ現地で体験した「困惑」を共有する留学生がいた。「北欧のジェンダー平等を履修していて、北欧にはまだ差別や偏見が残っていることに驚いた」と伝えると、飲み会の場にいたノルウェー人たちに「ノルウェーはジェンダー平等が達成された国だよ?」とまさに「北欧的否定」の状態に陥らされたという。ノルウェーの人はノルウェー人同士で話すときは国内の問題は素直に認めるが、相手が「外の人」となると、とっさに「北欧は最高!」国際キャンペーンをしたくなる傾向がある。この留学生は体験や学んでいることを否定されて戸惑っていた。
「福祉モデルにおいては北欧はまさにチャンピオンであり、最も幸福な国々だと。まあ様々な報告書はそう結論付けていますね。北欧は中立的な国でもあると。『オーマイゴッド!私たちはとても知的だ。どうしてこんなに知的になれたんだろう』と北欧の人は感じていますね」とThandi Dyaniさんが発言した後は、会場は爆笑の渦に包まれた。だって、本気でそう思っている人は北欧にいるからだ。リアルな皮肉だから、会場で笑い声がでるのだ。
Thandi Dyaniさん「誤解しないでくださいね。私の母はデンマーク人でもあります。北欧に関して築き上げられた全ての考えを崩そうとしているわけではありません。でも私は自分の体験として、この『北欧の奇跡』を共有できていません。北欧モデルや北欧アプローチとか、いろいろな言葉があるけれど、そんなに素晴らしい国々なら、どうして私たちにとっては生きるのがこんなに困難なの?長い間、北欧には自分の居場所があるとは感じられませんでした。『なぜそんなことを言うの?』『どうしてあなたは私の平和を邪魔しようとするの?』と何が起こっているのか最初は理解できませんでした」
肌の色が原因で北欧で「人種化(racialized)される」ことを考え続けてきたThandi Dyaniさんは、『北欧機関』のような場所に属する人々は「白人であることがどういう意味を持つのか」本当に理解しているのかと疑ってしまうと話した。
北欧ではホワイトネスの特権について深い議論や思考がされていない
このような体験を北欧現地の白人に打ち上げるのは勇気がある行為だ。Chisom Udezeさんは、「私はできる限り自分の本当の想いを口にしようとはしているけれど、時に逸れはビジネスや人間関係が代償となることもあります」と話す。
「私の夫は白人なのですが、ある日こう言ったんです。『黒人に今日会ったんだ』と。それで私は『白人に会った』とは言わないのは、どうしてなんだろうねと聞いたです。『わからない』と彼は考え込んでいました。私の娘はノルウェーの保育園に通っているのですが、有色人種の友達はそれぞれ名前で呼ぶのに、白人の友達のことは全員『ベイビー』と表現するんです。これは白人に対して指を突き刺すものではありません。ですが私はこのような無意識の社会化を興味深いと思っています」。
ノルウェーの人に『あなたは特権をもっているから』と告げると『私のことを人種差別者だと言っているの』『私は悪人なのだろうか』とChisom Udezeさんは聞かれたこともある。「そうじゃない。誰もが特権を持っています。『いかにして自分は特権を持っているのか』『どうして私は特定の力をもっているのか?』を考えることは重要です。相手を人として接し、互いにある人間性を見て、相手の存在を否定しないことは可能なはずなんです。いわゆる『抑圧オリンピック』にならないように注意することです。『黒人とは問題を抱えているんだ』と他者を周縁化させずに、互いにスペースを保つことは可能なはずです」
これはパンドラの箱を開ける行為である
どうしてこのようなことが起こるのかを話すことは「パンドラの箱を開けるようなもので、楽しいわけでもない」と話すThandi Dyaniさんさんは、それでも「内省することは幸福と平和に向かう旅の一部」だとも考えている。「自分がが持っているギフト(特権)を恥じずに、この特権を使って正しいことのために何ができるかを考えることはできるはず」「ホワイトネスという特権を恥や罪の意識にもっていくのではなく、責任として考えることはできるはず」と、二人は「否定ではなく他者の声に耳を傾ける」という希望は北欧の白人にもきっとあると信じている。
北欧にある(極右の)白人至上主義や、北欧は決して完璧な平等の国ではないことは、アカデミアの世界では論文としてもういくつも出ている。だが、市民の日常生活やメディアではまだまだ「北欧の一般市民がもつホワイトネス」についての会話は米国ほどはされていないと筆者も感じている。そしてここに切り込むのはとてもエネルギーがいることなのだ。めったに話されない北欧の植民地主義も含め、北欧のホワイトネスの複雑性という重いトピックはしっかり言語化されずにいる。だからこの二人のように、ポッドキャストという音声で会話で言語化しようとするアプローチ、それを公開する行動に驚いた。二人は個人の体験の不満を吐き出すだけで終わらず、社会構造として分析を使用とナビゲートしている。「人種の問題がまるで解決された・ないかのようにされている」この社会で、声を上げる人々に筆者は感謝をしたい。