大団円に終わった、石徹白騒動
江戸時代は世界史上類を見ない平和な時代であったと言われています。
しかしこんな平和な江戸時代においても全く事件が起きなかったわけではなく大量の死者が出る大騒動にまで発展した事件もあります。
この記事ではそんな江戸時代の大騒動、石徹白騒動について紹介していきます。
その後の石徹白
石徹白騒動は、野心的な神主・石徹白豊前が賄賂を使って郡上藩や吉田家の権威に取り入り、その力を背景に石徹白を支配しようとしたことが発端です。
豊前の独裁的なやり方は、石徹白における伝統的な秩序を崩すものであり、これに反発した社人たちとの間で深刻な対立が生じ、騒動が勃発しました。
この騒動の一つの重要な争点は、石徹白が吉田家の支配下にあるのか、白川家の支配下にあるのかという問題でした。
徳川幕府は1665年の「諸社禰宜神主法度」で吉田神道の優位性を確立しましたが、石徹白騒動では吉田家支配が完全には徹底されていない実態が浮き彫りになったのです。
最終的に、幕府評定所の判決で石徹白は吉田家支配とされましたが、白川派の社人たちが朝廷や寺社伝奏を通じて事件解決を図ろうとした背景には、幕府が朝廷の権威を警戒していたことが反映されています。
この騒動は、吉田家以外の神職が独立した形で存在していた当時の神祇界の状況も反映しています。
吉田家が神祇界の再編を進め、独立した神職を支配下に組み込んでいった中で、石徹白支配の正当性が強化されたことは、当時の幕府の政策とも一致していました。
石徹白騒動の処理は、吉田家の支配が神祇界に広がっていく過程を示すものであり、豊前による支配の裏にあった吉田家と幕府の関係も見て取れます。
また、幕府評定所は郡上一揆と比較しても石徹白騒動に対して厳しい判決を下しました。
これは、幕府が藩主や支配者に対して公平な調停者としての役割を期待していたためです。
豊前が郡上藩役人に賄賂を渡して独裁的な支配を行ったことは、郡上一揆における金森家の失策とともに、郡上藩主・金森頼錦の改易を招いた大きな要因となりました。
騒動後、追放されていた社人たちは帰郷を果たし、1759年に吉田家に謝罪と免許許可を願い出ました。
この結果、頭社人や社人の跡目相続時には金銭を納めることとなり、石徹白の運営は社人たちが主体的に行う形で再編されたのです。
また、騒動期に豊前が目指した独裁的な支配は排除され、神主職は世襲制ではなく、頭社人から選ばれる年番制に戻りました。
これにより、豊前による支配ではなく、石徹白の自治が強調される体制が復活したのです。
さらに、騒動の中で追放された社人たちを支援し続けた各務郡芥見村の篠田源兵衛に対しては、99名の社人から感謝状が贈られました。
源兵衛の支援は石徹白の復興に大きく貢献し、その後も社人たちは彼に借りたお金を返済し続けたのです。
10年以上にわたる返済の末、源兵衛の息子の代になってようやく借金が完済されたことは、騒動が石徹白の人々に与えた影響の大きさを物語っています。
石徹白騒動は、地方の神社運営と幕府、藩、神道界の力関係を浮き彫りにし、石徹白の歴史に大きな転換をもたらしました。