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いよいよ東京電力に対する債権放棄か

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

東京電力に対する債権放棄といえば、2011年5月、東京電力への政府支援の枠組みが検討されているさなか、当時の枝野官房長官が金融機関に債権放棄を求める趣旨の発言をして、大いに物議を醸したことが思い出されます。債権放棄論は、理論的にあり得ないことになったはずなのに、なぜ、今、改めて、現実味を帯びて復活してきているのか。

当時の枝野官房長官の無法な発言

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債権放棄は、原理的には、あり得ません。少なくとも、かつて枝野氏がいわれたような意味における債権放棄は、断じて、あり得ません。

枝野氏は、「原子力損害の賠償に関する法律」の第十六条に基づいて、政府が支援にのりだす条件として、もしも金融機関に債権放棄を求めないのならば国民は納得しないであろう、という趣旨を述べたのですが、これは、日和見的な政治屋としての国民感情迎合の発言にすぎず、官房長官として政府の重責を担う人の発言としては、不適切極まりないものであったのです。

それにしても、私個人の思いとしては、当時の枝野氏の「法律家としての」(枝野氏は、弁護士であり、当時、記者会見などで、法律家として、という前置きで発言したこともありました)奇怪な発言の数々に許し難き無責任を感じ、その怒りが今日までの膨大な東京電力に関する論考群を書き続ける力の源になったのですから、今、改めて、全く別の視点から債権放棄を論じることには、それなりの感慨があります。

なぜ、債権放棄があり得ないのか

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改めて債権放棄を論じる前に、最初に、枝野氏に代表されるような法律的に根拠のない債権放棄論を整理しておきましょう。

私が今もって枝野氏の数々の発言を許し難く思うのは、さすがに法律家だけあって、「原子力損害の賠償に関する法律」の本来の趣旨を正確に理解しながら、同時に、日和見的に世論動向を強く意識し、債権放棄論のような理論的にあり得ないことを平気でいう、あの厚顔さと無責任さに強い怒りを感じているからです。

枝野氏は、当初は、事故責任について、政府と東京電力との事実上の連帯責任である趣旨を述べていました。この連帯責任の考え方は、「原子力損害の賠償に関する法律」第十六条の政府支援の意味を正当に理解していることを明瞭に示していたのです。

そして、政府は、この事実上の連帯責任を構成するために、同法第三条ただし書きの免責の適用を排除しました。このことは、当時の菅総理大臣の迷言、東京電力を免責にすると東京電力の責任を問えなくなる、だから免責にはできない、という法律的には凄まじき暴論であるものの、政府の連帯責任を念頭に置く限り、それなりに正当な発言とも、平仄が合っていたのです。

ところが、菅政権は、一方で、政府責任を認めながら、他方では、国民負担の極小化という上手な表現を使って、事実上の政府無責任を実現してしまったのです。つまり、第一義的責任は東京電力にある(当然のこととして、政府の第二義的責任を前提にしているはずですが)といいつつ、現実は、全責任を東京電力に押し付けてしまった。

東京電力が全責任を負うということは、政府支援額は、その全額を弁済せしめるということです。ここを、もう少し正確にいえば、東京電力への政府支援は、原子力損害賠償支援機構を通じてなされるのですが、機構は、その支援額を、特別負担金という形態で、将来的に東京電力から回収する仕組みになっているのです。東京電力の立場からみれば、この特別負担金は、政府に対する出世払い債務のようなもので、政府は、事実上の巨大な債権者になっているのです。

さて、菅政権は、全責任を東京電力に押しつけたのですから、政府のもつ事実上の債権について、一切、債権放棄などは考えていなかったということです。それなのに、なぜ、金融機関に対しては、債権放棄を要求できるというのか、そのような理不尽なことは、社会正義にてらして、あり得ません。また、金融理論的にも、あり得ないのです。政府が債権者だとはいっても、所詮は出世払いであって、債権としては、金融機関の債権に劣後するものだからです。

逆転させ得ない債権の優先劣後関係

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つまり、劣後する債権者の立場にある政府は、優越する債権者である金融機関に対して、債権放棄を求めることはできないということなのです。なぜなら、理論的にも、金融規律の面からも、債権の優先劣後関係を逆転させることはできないからです。

もしも、政府が特別負担金の徴収権を具体的な債権と考えているのならば、その段階で、東京電力は債務超過です。東京電力が債務超過にならないのは、特別負担金が厳密な意味での債務ではないからです。つまり、単なる出世払いの債権は、法律的な債権としての具体的な確定性がなく、故に、明瞭に定義された金融債権に劣後するはずなのです。

それとも、特別負担金は租税債権に準じているので最優先債権だ、というのが政府の見解でしょうか。それは、そうかもしれませんが、たかが出世払いにすぎないものは、将来のどこかで、具体的に特別負担金として金額確定され、東京電力に請求されてはじめて、その確定された金額だけが租税債権に準じたものになるにすぎません。

以上の論理からして、政府の債権者としての立場は、不確定な事実上の立場にすぎず、非常にあやふやなものであって、金融機関の債権に劣後するものなのですから、政府から金融機関に対して債権放棄を求めることはできません。それは、法秩序の問題として、断じて、あり得ません。少なくも、日本が法治国家といえる限りにおいては、あり得ません。

逆に、政府は、金融機関に対して融資の継続を要請するしかない弱い立場にあるのですし、事実、金融機関の協力があるからこそ、東京電力は、存続し、電気事業を営み、そこからがある収益を用いて、事故収束、原子力損害賠償、廃炉、電気事業改革への対応などができているのです。政府支援は、あくまでも支援にすぎないのであって、本来の民間資金の循環が途切れないようにするための後見的役割が基本なのです。

金融機関に対して債権放棄を求めるなど、その民間資金の循環を断ち切ろうとする行為ですから、その意味でも、あり得ないのです。

政府の債権放棄が先

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では、政府が債権放棄をするというのなら、金融機関としても、債権放棄に応じる用意はあるのかが、問題となります。実は、これは、あり得るでしょう。

ただし、債権放棄は、収益事業としての金融における高度な経済合理的判断であって、贈与でも、社会貢献でもありません。あくまでも、総合的な収益性判断として、現時点における一部債権の放棄が将来的な収益の拡大につながるのならば、債権放棄に応じる経済合理性があるということです。

逆にいえば、もしも、政府が金融機関に対して債権放棄を要求したいならば、金融機関の合理的判断として、それに応じることが可能な程度と方法において、政府がもつ事実上の債権の一部を放棄すべきだということです。これは、経済取引の公正公平性として、至極当然なことです。

金融機関が債権放棄できる条件

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では、どのようにして政府が債権を放棄すれば、金融機関は、交渉の席につけるのか。答えは、東京電力の責任の有限化です。

いい方を変えれば、東京電力の有限責任を超える無限責任部分を、政府の直接責任にすることです。このことを、さらにいい方を変えれば、政府が東京電力に対して弁済を要求できる支援額について、上限をつけるということであり、その上限を超えた部分にかかわる政府の請求権を放棄するということです。いうまでもなく、論点は、その上限をどこに定めるかでしょう。

金融の立場からいえば、東京電力問題が極めて扱いにくくなっているのは、東京電力が無限責任を負うということなのです。つまり、融資という金融取引が成立するためには、元利金の回収についての合理的予見可能性がないといけないのですが、原子力損害賠償の無限責任ばかりか、事故収束や廃炉に至るまでの見積もり不能の巨額経費負担を強いられている東京電力の現状というのは、本来は、融資の対象にはなり得ない、即ち、バンカブルではないのです。

東京電力がかろうじてバンカブルになっているのは、「原子力損害の賠償に関する法律」の第十六条による政府支援があるからであって、これこそが、同法の基本的な趣旨なのです。

さて、安倍総理大臣は、事故収束について、政府が前面に出るといわれた。当然に、その延長として、廃炉についても政府責任が明確になるでしょう。こうして、政府は、既に、東京電力の責任を限定し始めているわけです。残るのは、損害賠償責任の有限化ですが、これさえなされれば、政府としては、最大限の責任を果たしたことになります。つまり、本論との関連でいえば、政府が求償できるはずの将来債権を、大幅に放棄したことになるのです。

東京電力の責任有限化は、東京電力をバンカブルなものに直す鍵ですから、金融機関の利益も大きい。そこで、政府としては、責任有限化の条件として、つまり、見返りとして、金融機関に対して債権放棄を求めることになる。現状、そういう交渉の状況にあるのではないでしょうか。

微妙な株主の立場

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ここで、大きな難問が生じます。債権放棄があるとして、株式の取り扱いは、どうなるでしょうか。株式は最劣後ですから、株式価値の毀損なしに金融債権が放棄されてしまっては、金融規律上、非常におかしなことになってしまう。

ところで、東京電力の圧倒的に大きな株主は、政府です。この事実上の国有化によって、既存の株主は、大きな希薄化の損失を受けています。また、金融機関の債権放棄の形態として、任意な債権整理を受けいれる立場からすると、単純な放棄よりも、債権の株式転換(優先株等だと思いますが)のほうが受け入れやすい。そうなれば、株式の潜在的希薄化は、さらに大きくなります。

いずれにしても、東京電力の現在の法律上の構成を抜本的に変更することは、既に現状を前提とした権利関係が確立してはじめている以上、事実上は極めて困難で、単に、政府支援のあり方の技術的な変更にとどめるほかないと思われます。

しかしながら、他方では、東京電力の責任有限化は、極めて大きな株主利益になると思われ、さてさて、枝野氏ではありませんが、国民は納得しないかもしれず、難しい問題です。それに、上場企業であることも、手続きを微妙かつ複雑なものにします。こうした事情から、一部に、法的整理、そして上場廃止を求める意見が根強くあるのは、理解できなくもありません。

あってはならない国民感情への迎合

なお、金融機関の債権放棄について、枝野氏的な国民感情迎合の視点から検討されるのならば、私は、断固として反対せざるを得ません。任意な債権放棄は、経済合理性のあるものとして、説明のつくものでなければなりません。そうでなければ、金融機関の経営者は、自分の株主に対する責任を果たせないですし、税務上の損金性の問題も生じます。

とにかく、法治国家の政府として、国民感情に迎合し、金融機関に無法な要求をすることは、あるまじきことです。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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