京都の「葵祭」はなぜ1400年続いてきたか
葵祭は正しくは「賀茂祭」といい、欽明天皇(6世紀中頃)の時、凶作に見舞われて飢餓疫病が流行した時に、天皇が水を司る神であった「鴨の神」の怒りを鎮めるため、勅使を遣わせて祭礼を行ったのが起源とされている。
その際に行われた祭礼は、馬に鈴をつけ、人は猪頭を被り、駆け比べをするという盛大なものであった。それが現在のような形となったのは、貞観年間(859~876年)だったとされている。
このことから、葵祭の原型は、下鴨神社の流鏑馬神事(5/3)や上賀茂神社の競馬会神事(5/5)で行われる「馬を走らせる」部分に見ることができる。
形は変われども、とにかく1400年以上もの長きに渡って続いている日本でも稀有な祭りである。なぜここまで(途中の中断があったにせよ)続くことができたのか。
一つ目の理由は、「勅祭」という位置づけだ。現在日本には八万以上もの神社があるが、そのうち「勅祭」を行っているのはたった十六社。さらに三勅祭と呼ばれる格式を誇るものは、春日大社、石清水八幡宮、賀茂社(上賀茂神社、下鴨神社)の祭りだけだ。当然ながらその継続には朝廷からの最大限の配慮があったであろう。賀茂社はそもそも平安京遷都の際に、秦氏の氏神を祀る松尾大社とともに王城鎮護の社とされ、優遇されてきた。
二つ目の理由は、そもそもこの祭りを行ってきた「賀茂氏」の存在ではないだろうか。賀茂一族は京都に古くから拠点を置いた名門一族で、鴨川の上流を拠点にして京都の水を支配した。
平安京遷都後、賀茂一族は王城鎮護に指定された賀茂の社を守ることはもちろん、朝廷の中でも陰陽寮を任されることとなり、多くの陰陽師を世に送りした。そのうちの一人が賀茂忠行、保憲父子が育てた安倍晴明だ。晴明は賀茂一族から天道を学び、極めていくこととなる。
平安末期から鎌倉初期の時代の狭間に活躍した鴨長明は、文字通り鴨一族であり、朝廷に仕えて和歌の世界でも活躍した。結局その方面では頓挫し、余った時間に任せて執筆を行ったのが、名著として今もなお読み伝えられている『方丈記』だ。
室町時代に入ると、朝廷、貴族の時代は過去のものとなり、武士が台頭した結果、最終的には徳川家康が江戸幕府を開くこととなる。その家康が家紋としたのが三つ葉葵。これは賀茂社の神紋(二葉葵)であったものを、賀茂信仰に厚かった家康(徳川家の前の松平家が賀茂社の神官とも)がアレンジしたものとされる。当然ながら賀茂社や葵祭は徳川家からの援助を受けることとなった。
江戸時代には賀茂真淵などの文学者が現れ、近世では賀茂一族の鴨脚(いちょう)家が、御所の水の管理を行ってきたことも知られている。
このように葵祭が長きに渡って継続されてきたのは、その時代時代に祭りを担当した賀茂一族が没落することなく生きながらえ、新たな時の権力者から援助受けるなどの「縁」にも恵まれて、こうして現代に受け継いできたからだと言えよう。